2011年02月09日

浄土真宗5 東西分裂へ

本願寺の東西分裂の根本的な原因は、顕如と息子の教如の不和にあります。小説『信長が宿敵 本願寺顕如』でも息子の教如とほとんどコミュニケーションが取れない顕如の父親像が描かれています。これは現代の父たちが読んでも共感できる部分かもしれません。

石山合戦のとき、顕如は織田信長との和睦を受入れ、石山本願寺から撤退しますが、息子の教如は徹底抗戦を主張します。このことを巡って顕如は教如を義絶します(後に赦免)。このときから教団内部は穏健派と強硬派に分かれ、分裂の火種が生じます

1592年、顕如の死去にともない教如が本願寺を継承します。この時、側近を強硬派で固めたため、穏健派の不満が噴出します。穏健派は天下人となった豊臣秀吉に働きかけます。その結果、1593年に秀吉は異母弟の准如に法主の座を譲ることを命じます。

その後、1600年関ヶ原の戦いに勝利し、天下人になった徳川家康は戦に協力した教如を宗主に再任させようと考えます。しかし、一向宗にはかつて三河一向一揆で滅亡寸前まで追い込まれた経験があります。そこで重臣の本多正信の「本願寺の対立はこのままにしておき、徳川家は教如を支援して勢力を二分した方がよいのでは」という提案を採用し、本願寺の分立を企図します。

ところで、この本多正信は、若い頃、三河一向一揆では一向宗側に参加し、家康と敵対しました。一揆が鎮圧されると、正信は三河を出奔し各地を放浪します。その後、再び家康に仕えたとき、今度は一向宗を分裂させ、その力を弱体化させようと考えたのです。一体、正信はどんな心境の変化があって、そうした行動に出たのか、とても気になります。事実、多くの作家がこの正信の行動を小説などで描いています。

こうして、家康は本多正信の意見を取り入れ、教如に京都七条烏丸に寺領を寄進し、1603年に東本願寺が分立します。准如が継いだ本願寺は西本願寺と呼ばれるようになります。

ふたつの本願寺の位置関係を見ますと、目と鼻の先です。
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西本願寺は学寮を基礎にして、1922年に龍谷大学を設置。今も本願寺の隣接地にあります。理工学部を設置したり、スポーツに力を入れたりと総合大学化しました。見た目は仏教色が薄くなっています。
東本願寺も学寮を元にして、1923年に大谷大学を設置しました。こちらは龍谷大学と対照的に仏教系の単科大学です。仏教色が色濃いと感じます。

西本願寺はあくまで通称で、正式には「浄土真宗本願寺派」といいます。寺院数は約10,500で国内最大です。東本願寺の正式名称は「真宗大谷派」。寺院数は約8,900でこちらもかなりの数です。

各宗派で対立する時期もありましたが、親鸞の生誕750年・立教開宗700年にあたる1923年(大正12年)に、真宗各派の協調・連携を図るために「真宗教団連合」というものがつくられました。西本願寺、東本願寺はもちろん、親鸞の弟子たちが興した宗派も含め10派が所属しています。

最後に宗名について述べます。戦国時代は「一向宗」と呼ばれていた教団は、江戸時代に入ってからは浄土真宗とも呼ばれるようになります。しかし、そのことに不満を持つ浄土宗から圧力がかかり、江戸幕府は「浄土真宗」と名乗ることを禁じ、「一向宗」が正式名称となっていました。

しかし、1774年から15年にわたって浄土真宗と浄土宗の間で宗名論争が行われ、明治5年(1872年)になってようやく明治政府が「一向宗は真宗と改名してよし」と布告してから、正式に「浄土真宗」を名乗ることが許されました。

次回は浄土真宗シリーズの最終回。東西分裂以降も浄土真宗、本願寺ではさまざまな出来事がありました。そのそれぞれの出来事が歴史ファンを熱くさせてくれます。


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ラベル:仏教
posted by すぱあく at 05:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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