1321年、親鸞の曾孫の覚如(3世)は、京都に本願寺を建てます。今なお続く「本願寺」の誕生です。
しかし、当時はそれほど力はありませんでした。
というのも、親鸞には多くの弟子がいて、その弟子たちが興した宗派(佛光寺など)の方がずっと力が大きかったのです。
存続の危機にあった本願寺を立て直して、礎を築いたのは室町後期の蓮如(8世)です。親鸞の教えを平易な言葉で述べた『御文(御文章)』を著作し、一般に広く布教しました。これにより本願寺は急速に発展・拡大し、一向宗と呼ばれるようになりました。
日本史で「一向一揆」という言葉を習いましたよね。戦国時代になると人心が荒廃し、民衆の不満が爆発しました。一揆を起こした多くが一向宗の信者だったため、このように呼ばれます。
戦国大名はこの一向一揆の対策に苦しみます。とくに苦しんだのが徳川家康です。1563年、三河の領主である家康(当時は松平家康)に対し、一向宗が戦を仕掛けます。この戦は激戦を極め、あわや三河は滅亡寸前までいきます。なんとか平定しましたが、家康は宗教の恐ろしさを骨の髄まで味わうことになりました。
この経験により、家康は教団の肥大化を恐れるようになります。1600年に関ヶ原の戦いで勝利し、天下人になった家康は、東本願寺(真宗大谷派)に土地を寄進して西本願寺(浄土真宗本願寺派)との分裂を進める行動に出ます。若い頃に味わった恐怖感からの行動と考えられています。
さて、話を蓮如に戻します。
蓮如のおかげで力をつけてきた本願寺でしたが、1465年にライバルの延暦寺の衆徒によって破壊されます。いつの時代も、宗教同士の争いは容赦ないですね。
寺がなくなってしまった蓮如は、1471年に越前(福井県)吉崎に移り布教します。その後、1482年に京都山科に移り、「山科本願寺」を建立します。1489年、75歳になった蓮如は子どもの実如(9世)に法主の座を譲って隠居します。1496年には大坂石山の地に寺院を建立し、これが後の「石山本願寺」になります。そして1499年、山科本願寺において85歳で死去します。
さて、蓮如の代で急速に拡大した一向宗でしたが、一揆を恐れる大名や他の仏教教団から眼の敵にされます。1532年には細川晴元と日蓮宗徒によって、「山科本願寺」が焼き討ちされてしまいます。この後、教団本部は「石山本願寺」を本拠地とし、防御を固め、石山一帯は要塞都市になります。そしてここが、織田信長 VS 一向宗の「石山合戦」の舞台となります。その続きは、次回。
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