浄土真宗という宗派や教義が確立したのは親鸞の死後で、親鸞自身はあくまで法然に学ぶ熱心な弟子という立場だったと考えられています。
「浄土宗」と「浄土真宗」、名前が似ているのはこのためですが、親鸞の死後、「浄土宗」側から「まぎらわしい名前を付けおって」「教義を勝手に変えおって」と攻撃され、改名を迫られます。この宗名論争は長い歴史を経て、明治期にようやく落ち着きます。このことはまた後ほど触れます。
さて、法然が開いた「浄土宗」は、既存仏教(奈良や比叡山など)にとっては脅威であり、彼らの陰謀により、1207年法然と親鸞を含む7名の弟子が流罪になります。親鸞は雪の深い越後に流されます。
ただ、弾圧→→→信仰心に火が付く、ということは洋の東西問わずあることで、親鸞の布教魂はこの越後でエスカレートします。彼は4年後に赦免されるのですが、京都に戻らず20年間にわたり関東で布教します。

光照寺(茨城県笠間市)の親鸞像
改革精神に火がついた親鸞は、既存仏教の戒律のいくつかは無意味であると考えます。そのひとつが当時の仏教界のタブーであった「妻帯」でした。親鸞は恵信尼(えしんに)と結婚し、後に7人の子どもに恵まれます。また、俗人と同じ食事をしこれまたタブーであった肉を食べます。
教えの内容としては、僧侶でも俗人でも平等に阿弥陀仏に救われるという「非僧非俗」という立場をとります。また、念仏を唱えることで救われるという法然(浄土宗)の教えを発展させ、阿弥陀仏を信じるすべての人間は阿弥陀仏によって極楽往生することを約束されていると説きます。
これはすなわち悪人であっても「信じれば救われる」ということになり、「悪人正機説」といわれます。このように庶民でも、悪人でも「信じれば救われる」という教えは、民衆の心をワシづかみにし、浄土真宗は鎌倉時代に急速に広まっていくのでした。
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