1898年 孫文は横浜の隠れ家に住んでいましたが、その家の二階に火事で焼け出された大月家が移り住んできます。
そのとき、大月家の娘大月薫(当時12〜3歳くらい)と出会います
1901年 横浜高等女学校に通っていた大月薫(15歳)にプロポーズし、大月家は承諾
1905年 「中国同盟会」結成のために日本に戻ってきた孫文は大月薫と結婚します。
この話は、大月薫と孫文の娘である宮川冨美子の子ども(つまり孫文の孫)の宮川東一氏(1928年生、現在82歳)の話で明らかになり、新聞などで報道されました。
日本に孫文の孫がいることは、あまり知られていない。その人物・宮川は昭和3年生まれ。祖母の大月薫が横浜で孫文に見初められて結婚し、宮川の母・冨美子を生んだ。しかし、戦乱の最中だったため、その事実は冨美子に知らされず、冨美子は自分の両親が誰なのか、知らずに生きてきたという。「母の悲しみはいかばかりかと思います。わたしも自分が孫文先生の孫であるということを知ったのは30歳になってから。戦後、しばらくたって、日中の関係が落ち着き、これで大丈夫だろうというときに、事情を知る親戚から聞かされたのです」と宮川は振り返る。
ときおり、自分の中に孫文の血を感じることがあるという宮川。それは、移り変わる世の中の動きを読み、行動する力だという。「孫文先生は国を変えるためには革命をするしかないと考え、行動に移しました。 一方、わたしは若いころ、会社員で、会社の長期経営戦略を立てる仕事に就き、そのことに生きがいを感じていました。(立場は違うが)そんなところに孫文先生の血の導きを感じましたね」という。現在、宮川は多数の流通関係の本を執筆しているほか、昨年は自伝「日本に遺された孫文の娘と孫」を書き上げた。「日中国交の架け橋 として、また歴史の狭間でほんろうされた親子がいたことの証を書き記そうと思いました」と話し、深々と頭を下げた。(2009年9月14日 シネマトゥデイ映画ニュース)
「歴史的事項」として認定されるにはまだ時間がかかりそうですが、すでに中国と台湾は、宮川氏を孫文の孫と認定しています。
この話によって「英雄・孫文」は「人間・孫文」に見えてきます。
外国で逃亡生活を続ける孫文。孤独な戦いに心は疲れていた
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横浜の隠れ家でひっそり暮らす。その隠れ家に一人の少女がやってくる
逃亡生活に疲れていた孫文はそこに安らぎを覚える
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15歳の女子高生の少女にプロポーズする孫文
後に妻となる宋慶齢の実家である宋家は大財閥で、孫文の革命を資金的にもバックアップしました。
しかし、大月家は普通の庶民です。こういったことも「歴史的事項」になりにくい理由かもしれません。
大月薫の後日談を書きます。
革命運動に奔走していた孫文は毎日が慌しく、間もなく出国した孫文とは連絡が途絶えてしまいます。
メールも携帯もない時代ですからね。
これを不憫に思った大月家は薫を他家に嫁がせることにしました。
一方、孫文の子として生れた冨美子は、まだ乳児だったので横浜市内の商家である宮川家に預けることにしました。
やがて適齢期になった冨美子は、東京の多摩から宮川家に婿養子として迎えた大沢吉次さんと結婚。その長男として宮川東一氏が生まれます。
孫文が日本を去った後、薫は日本の男性と結婚しましたが、娘の宮川冨美子は生みの親が誰かは知らされることなく育ちました。
なにせ、孫文はお尋ねものですし、中国と日本は戦争するほど関係が悪化していました。身の安全のため、関係者は真実を隠していたそうです。
冨美子が薫と初めて面会できたのは、1958年場所は栃木県のお寺でのことだったそうです。
このとき、30歳の宮川東一氏も自分が孫文の孫であることをはじめて知ります。
孫文の女性関係
孫文は複数の女性と関係があります。しかも年下好みのような気がします。
1885年 19歳のときに盧慕貞(18歳)と結婚。孫科(後に国民党幹部)、孫娫、孫婉の3人の子どもをもうけます。しかし、孫文はほとんどの時間を革命運動にささげたため、ともにすごした時間は少なく、1915年に離婚
1891年 24歳。陳粹芬(18歳)と出会います。陳粹芬は後に妾になります
1897年 31歳。日本に亡命。横浜の下宿先でメイドの浅田春(15歳)と出会います
1898年 32歳。大月薫(10歳)と出会います
1900年 34歳。浅田春(18歳)と関係を持ちます
1902年 36歳。大月薫(14歳)に求婚します
1904年 38歳。大月薫(16歳)と結婚します
1915年 49歳。宋慶齡(22歳)と結婚します
1925年 59歳にて逝去
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