ただ、日本人である私たちはその事実をそれほどよく知りません。彼の日本での動きを見ていきます。
太字は彼と交流した日本人。とくに犬養毅、梅屋庄吉、宮崎滔天、頭山満らは「アジア主義者」と呼ばれ、密に交流した人物たちです。
1894年 孫文、ハワイで興中会を組織
1895年 広州蜂起に失敗して日本とアメリカを経てイギリスに亡命。イギリスにある清国公使館に監禁されるが、イギリス政府によって釈放される。この体験を『倫敦被難記』として発表し、孫文は世界的に有名な革命家になる。そして、革命資金を集めるため世界中を巡る。
1895年 香港で梅屋庄吉と出会う
1897年 イギリスに亡命。ロンドン留学中の南方熊楠と出会い、親交を深める
1897年 宮崎滔天と知り合う。さらに滔天から頭山満を紹介される
1898年 横浜の隠れ家に住む。横浜時代は犬養毅に手紙を送っていた様子
1898年 隠れ家の2階に火事で焼け出された大月家が移り住む。大月家の娘、大月薫と出会う
1899年 義和団の乱が発生
1900年 恵州で挙兵するも失敗
1901年 横浜に戻る。横浜高等女学校に通っていた大月薫(15歳)にプロポーズし、大月家は承諾
1905年 東京で興中会、光復会、華興会を糾合して中国同盟会を結成
1905年 大月薫と結婚
1911年 武昌蜂起、そして辛亥革命
1912年 孫文を臨時大総統とする中華民国が南京に成立。このとき日本から頭山満、犬養毅が訪中し会見
1913年 袁世凱に大総統の座を譲った孫文は前大総統として来日し、各地で熱烈な大歓迎を受ける。2月に梅屋庄吉と会う。3月に神戸にある呉錦堂の松海別荘を訪問。福岡の玄洋社や熊本の宮崎滔天の生家にも立ち寄る
1913年 8月、袁世凱による独裁に破れ、日本に亡命(〜1916年)
1914年 中国国民党の前身である中華革命党を東京で組織
1915年 孫文と宋慶齢の披露宴を梅屋邸で主催
1924年 神戸で「大アジア主義講演」を講演
1925年 北京で客死
梅屋庄吉との交流
1895年、孫文は香港で梅屋庄吉(1868年〜1934年)と出会います。長崎出身の梅屋庄吉は日本で事業に失敗して中国に逃げ、香港で写真館を経営していました。引き合わせたのは孫文の恩師で、医学博士のジェームズ・カントリーです。
その後、香港の写真館が成功し、財を成します。そして、その財力を孫文の革命運動に援助します。その額は現在の価値に換算すると1兆円に相当するといわれています。
1915年、孫文と宋慶齢の披露宴を梅屋邸で主催しました。
梅屋庄吉と孫文が密に交流していたことは最近まで知られていませんでした。それは、遺族が日中関係に配慮して、日記や書簡を公開してこなかったからです。1972年の日中国交正常化が実現してから、これらが公開され、新しい事実が知られるようになったのです。
2010年8月、上海万博の日本館では、梅屋庄吉と孫文の交流を紹介する展示会が開催されました。
宮崎滔天との交流
1897年、孫文は宮崎滔天(1871年〜1922年)と知り合い、中国における革命運動の援助を受けることになりました。
1905年、宮崎滔天は孫文の「中国同盟会」結成にも協力しています。
白山神社(東京都文京区)には宮崎滔天が孫文とともに座った石段が碑とともに保存されています。
頭山満との交流
頭山満(1855年〜1944年)と出会った孫文は、彼の人脈のさまざまな人物たちから援助を受けます。平岡浩太郎からは、東京での活動費と生活費の援助を受けました。犬養毅からは早稲田鶴巻町の2千平方メートルの屋敷を提供されました。
孫文が中華民国臨時政府の大総統に就任したときは、頭山満と犬養毅は中国に渡って会見し、長年の苦労をねぎらっています。
孫文が袁世凱に破れたとき、再び日本への亡命を決意しますが、日本政府は袁世凱支持に回っていたため入国を拒否する方針でした。それでも、頭山満は犬養毅を通じて山本権兵衛首相に交渉し、亡命を認めさせました。このとき匿われたのが霊南坂(東京都港区)にあった頭山邸の隣家です。
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著者の小坂文乃は梅屋庄吉の曾孫
ラベル:生涯年表