しかし、その巨大さゆえに全貌を理解するのは困難で、日本では「モンゴル帝国=元朝」と捉えがちです。
実際のところ元朝はモンゴル帝国の宗主国的な立場と同時に、中国地区の支配を担っていた一政権であるとも考えられます。つまり、その他の衛星国もあわせて「モンゴル帝国」といえます。こうした考えがないと、当時の世界史を理解するのは難しいと思います。
赤字・・・滅ぼした、もしくは服属させた国 緑字・・・内部で興った国
1206年 テムジンがモンゴルを統一しをチンギス・カンを称す。(モンゴル帝国の始まりとされる)
1227年 シルクロードに栄えた西夏を滅ぼす。同年、チンギス・カン死去
1229年 チンギス・カンの息子、オゴデイが第2代皇帝に即位
1234年 中国北部を占領していた金を滅ぼす
1235年 チンギス・ハンの長男ジョチの次男バトゥを司令官とするヨーロッパ遠征軍がロシアまでの全ての遊牧民の世界を征服。進軍は遠くポーランド、ハンガリーまで席捲
1241年 オゴテイが死去。皇帝が死去した場合は、本国に帰国しクリルタイ(部族会議)に出席する必要があるため、バトゥは遠征を中止。ウィーンは命びろいをする →モンゴル帝国を退けた国・人物
次代皇帝の有力視はオゴテイの子グユクだったが、バトゥとは犬猿の仲。結局、お家騒動が勃発し、皇帝は5年間空位に
1243年 バトゥはクリルタイ不参加を決定し、サライに都をつくりキプチャク・ハン国(ジョチ・ウルス)を建国
→『大旅行記』レビュー キプチャク・ハン国スルタンに謁見する
1246年 グユクが第3代皇帝に即位。この即位式にローマ教皇の使節であるプラノ・カルピニも列席
→モンゴル帝国 旅行記 →憧れのヴァチカン
1248年 バトゥはグユクの度重なる帰国命令を拒否。ついに討伐軍が動くが、4月にグユクが死去
1251年 チンギス・カンの四男トルイの子、モンケが第4代皇帝に即位
1253年 中国制圧を担当していたフビライが雲南を支配する大理国を降伏させる
1254年 フランスの修道士ウィリアム・ルブルックがカラコルムを訪れ、モンケに謁見
→モンゴル帝国 旅行記
1255年 バトゥが死去
1256年 皇帝モンケ、弟のフレグに西アジア遠征を命じる
フレグ、ホラーサーン総督に代わってイランの行政権を獲得し、イルハン朝(フレグ・ウルス)が事実上成立
1258年 フレグ、バグダードを征服しアッバース朝を滅ぼす
1259年 高麗を服属させる。モンケが死去
1260年 中国にいたフビライが第5代皇帝(大ハーン)を一方的に宣言。同時にモンゴル本国にいた末弟のアリクブケも即位し、南北分裂状態に
1264年 フビライの勝利で帝位継承戦争終結
1271年 フビライ、モンゴル帝国を大元と改称。同年マルコ・ポーロが上都を訪れる
→モンゴル帝国 旅行記
1274年 元寇。文永の役 →モンゴル帝国を退けた国・人物
1277年 アナトリアにおける戦いでマムルーク朝に敗北 →モンゴル帝国を退けた国・人物
1279年 崖山の戦いで南宋を滅ぼす
1281年 再び元寇。弘安の役 →モンゴル帝国を退けた国・人物
→琉球大・池田栄史教授が元寇船を長崎・松浦沖で発見
1288年 白藤江の戦い。陳興道率いる陳朝ベトナムに敗北 →モンゴル帝国を退けた国・人物
1294年 フビライが死去。フビライの孫テムルが第2代元朝皇帝に即位
1301年 中央アジアを支配するチャガタイ・ハン国(チャガタイ・ウルス)が形成される
1305年 反目していた衛星国同士が和睦によって4つの連合体のようになり、ユーラシア大陸が安定する
この時代をパックス・モンゴリカ(モンゴルの平和)と呼び、シルクロードをわたって多くの小隊、旅行者が往来した
大航海時代以前では初めて東西の交流が活発になった時代であり、「世界史」という概念ができた
イブン・バットゥータがキプチャク・ハン国、チャガタイ・ハン国、元朝に来朝 ― イブン・バットゥータ『大旅行記』年表
1368年 明の朱元璋によって、元朝最後の皇帝トゴン・テムルはモンゴル高原に敗走。
以降は北元と呼ばれる(モンゴル帝国、事実上の滅亡)
→『大旅行記』レビュー トゥグルク朝の使節として中国行きを命ぜられる
1634年 モンゴル高原は清の支配下に置かれ、北元は滅亡
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