2016年01月10日

NHK『激動の世界 テロと難民 〜EU共同体の分断〜』を見て

nanmin.jpg昨日、NHKスペシャル『シリーズ激動の世界 第1回 テロと難民 〜EU共同体の分断〜』を見ました。巷ではなんだかいろいろあったとされる大越健介キャスターが、元気バリバリにヨーロッパから報道されていて、エネルギーをもらいました。

一方で、その内容は、かな〜〜〜〜り重苦しいものでした。一人で胸に閉まっていると気がふさぐので、ブログに書いた次第です。

シリア内戦で追われた難民がヨーロッパになだれ込み、現在のEUは受け入れ容認と反対に真っ二つに分かれています。もともとEUは、二度の世界大戦と冷戦の反省から、経済統合し、国境を廃し、豊かな経済圏を作ろうという理想で組織されたわけです。その理想が今、危機に瀕しているという。


●ドイツの世論が真っ二つ
難民の受け入れに難色を示す国が多い中、例外的に寛容なのがドイツです。ドイツはヒトラーのナチス政権時にユダヤ人を迫害し、多くの難民を発生させた反省から、メルケル首相の元、受け入れ政策を推進しています。

しかし当然、受け入れに反対する人もいます。中でも旧東ドイツのドレスデンには、とりわけ反対派が多いといいます。反対デモに参加していたあるお父さんの台詞がなんとも言えません。
「1990年、東西ドイツが統一したとき、そりゃ〜素晴らしい未来がやってくると想像したもんです。しかし、不況は一向に改善せず、生活は苦しいまま。それなのに、なぜ私たちの税金が難民救済に使われなきゃならんのです?」

彼は過激派でもネオナチでもなく、本当に普通のお父さんでした。それだけに感情移入しやすく、問題の深刻さが理解しやすかったです。


●東ドイツ テラ オソロシス (( ;゚Д゚))
旧東ドイツは、第二次世界大戦の終結後に出現した「分断国家」です。戦争にはさまざまな悲劇が生まれますが、家族や親せきが別の国に分かれてしまう、この「分断国家」も大きな悲劇です。ドイツの他では、朝鮮半島やベトナムがありました。この2地域はさらに悲惨で、朝鮮戦争(1950年〜1953年)とベトナム戦争(1960年〜1975年)という同族で殺し合うところまで行きました。ドイツはそれがなかっただけ、幸いだったといえます。

しかし、社会主義・共産主義国家だった旧東ドイツがハッピーな国だったかといえば、そんなことは決してありません。小説『プラハの春』(春江一也)を読めばわかりますが、その国家像には恐ろしさで震え上がります

登場人物の一人にヘス中佐というのが出てきます。彼は「シュタージ」と呼ばれる悪名高い秘密警察の工作員です。シュタージは、徹底した監視態勢で東ドイツ国民を恐怖のどん底に叩き落としました。その恐ろしさは、ナチスのゲシュタポ、ソ連のKGBさえもしのぐと言われています。

dorago.jpgヘス中佐の冷酷さ、残忍さもハンパではありません。読みながら「ひ〜やめて〜、(T△T)」となったもんです。どうでもいいことですが、私の脳内ではドルフ・ラングレン(『ロッキー4』のイワン・ドラゴ役)が、ヘス中佐になっていました。

そんな恐怖政治が終わって、1990年にドイツが統一したわけですから、そりゃ嬉しかったでしょう。これからの未来はバラ色だと。しかし、現実はそうなっていないんですね。戦争はほとんどなくなり平和になったものの、世界は富めるものと、そうでないものとにハッキリわかれつつあると感じます

昨日、このドキュメンタリーを見て、どうしようもなく心が重苦しくなりました。しかし、これらは考えてもどうにかなる問題ではありません。結局は、今、自分の目の前にある仕事を一生懸命こなすしかないなと思いました


★外部リンク
U2のボノ、難民危機について解決しない限り「ヨーロッパが終わる」と語る(NME JAPAN)


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ドイツ在住の著者ならではの視点が重要。日本からドイツを見ると、まさに「隣の芝生は青く見える」が、現実はかなり混迷を極めていることがわかります。

ドイツは苦悩する―日本とあまりにも似通った問題点についての考察

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ラベル:ユダヤ
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2015年06月03日

中世ヨーロッパファン熱狂の『Imperia Online』

オンラインゲーム『インペリアオンライン』。中世ヨーロッパの歴史ファンなら、きっと熱狂するでしょう。城を作って都市を作り、それが大きくなってやがては帝国へと発展するのです。

Imperia-Online.jpg


プレイヤーは領地を持った状態でゲームを開始。町で資源を集めながらさまざまな建物を建設していきます。
都市の住民には「満足度」というステータスがあり、戦争や神殿・大学といった建物の有無で変化していきます。また、税金の徴収、貿易や銀行といった経済活動で資金を得ることができます。

資金ができたら軍備を増強。敵国の城を攻め落とし、領地を併合していくことで自国が発展していきます。やりこみゲームが好きな人も楽しめるでしょう。


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2014年06月14日

オランダ人にとって特別なオレンジ色

2014ワールドカップ ブラジル大会が開幕しました。これから2週間は寝不足必至の方も多いのでは。
6月14日の4:00から前大会決勝のスペイン VS オランダという好カードが行われ、サッカーファンは熱狂したことと思います。タレント不在と言われていたオランダでしたが、5得点の大爆発。これだからワールドカップは凄いんだよなぁ。

Bergkamp.jpgさて、オランダ代表のユニフォームは基本的にオレンジ色です。クライフのときも、ベルカンプのときも、今のロッベンもそうです。なぜオレンジ色なのか? それはオランダ人にとって、オレンジ色は民族の根幹に関わるほど重要な色だからです

オレンジのことをオランダ語ではオラニエといいます。元々、南フランスにオラニエという地方があり、それが12世紀頃から神聖ローマ帝国の小さな公国になりました。
ところが、オラニエ公には跡継ぎがいなかったため、今のオランダ当たりにいた親戚が跡継ぎになります。その家系はオラニエ=ナッサウ家と呼ばれ、「オラニエ公=オランダ」というイメージが定着しました。ちなみに、今のオランダ王室もオラニエ=ナッサウ家です。
世界のロイヤルファミリー


WilliamOfOrange1580.jpg代々オラニエ公というのはたくさんいましたが、オランダ人にとっての民族的英雄と思われるのはオラニエ公ウィレム(ウィレム1世、1533年〜1584年)でしょう。

当時、オランダやベルギー当たりの地域はネーデルラントと呼ばれていました。ネーデルラントは、1477年にハプスブルク家の領土となります。その後、ハプスブルク家は婚姻関係によってスペイン国王も兼務。強大な軍事力で、ネーデルラントに圧制を敷きました。
さかのぼりスペイン史5 太陽の沈まない帝国




オランダ独立戦争
スペインの圧制に反対するネーデルラントの市民は、1568年オラニエ公ウィレムを中心に団結し、独立戦争を開始します。
1579年、北部ネーデルラント7州はユトレヒト同盟を結成し、1581年にはネーデルラント連邦共和国の独立を宣言します。このとき以来、北部の有力州だったホラント州にちなみ、外国からは「オランダ」と呼ばれるようになりました。
さらに、この頃からオラニエ=ナッサウ家を象徴する色彩としてオレンジ色が使われるようになりました

独立以後も、それを認めようとしないスペインとの戦争は続きます。軍事力では劣るオランダでしたが、イギリスが支援したことでついに停戦まで持ち込みます。そして、1648年のウエストファリア条約によって国際的にもオランダはスペインからの独立を果たします。この独立戦争は80年間にわたって行われたので、八十年戦争とも呼ばれています。
さかのぼりスペイン史4 斜陽の帝国

スペイン VS オランダ。かつて独立をかけて戦った国同士。そしてオレンジ色。サッカーの試合でもその想いを重ねている国民は多いでしょう。


★関連記事
・2010ワールドカップ 南アフリカ大会 ― ワールドカップに見る宗主国と植民地の関係
2002年日韓ワールドカップの経済効果(中国語)


ラベル:スポーツ
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2012年01月22日

『大旅行記』レビュー 聖ソフィア大聖堂について説明する

イブン・バットゥータは『大旅行記』の中で、コンスタンティノープル(現・トルコ共和国イスタンブール)の代名詞である
アヤソフィア(聖ソフィア大聖堂)についても述べています。
sophia.jpg

東洋文庫『大旅行記4』72頁〜
われわれは、その教会堂の外側だけについて説明するとしよう。その内部については、私はそれを実際に見ていないからである。そこは、彼らによると「アヤ・ソフィア」と呼ばれ、伝えるところでは、バラフヤーゥの子息アーサフが建設したもので、彼は他ならぬソロモン王の母方叔母の子息であると言われる。そこはルームの最大の教会のひとつであり、その周囲を塀が取り囲み、まるでひとつの町のようである。

教会の門は13あり、そこには1マイルほどの聖域があり、ひとつの大きな門によって囲まれている。誰でもその聖域内に入れる。そこはちょうど、謁見用の広間に似ており、大理石が張られ、教会から出た水路がそこを流れ、その水路のところの両端には1ズィラーほどの高さのふたつの仕切り壁が付いてその間を水が流れている。その仕切り壁は精緻を極めた彫刻の施されたモザイク状の大理石で造られ、水路の両岸には樹木が整然と植え込まれている。

中略

教会の入口のところに教会の雑務係たちが座る屋根付き柱廊があって、彼らは教会の中の道路を清掃したり、街頭を灯し、諸門を閉めたりする。彼らはその内部に入ろうとするものに対して、彼らのもとにある巨大な十字架に平伏するまで誰一人として入ることを許さない。その十字架は、イエスの生き霊が磔されたあの聖木の遺宝である、と彼らは主張している。その十字架は教会の門のところにあって、長さ10ズィラーゥほどの黄金製の棺箱に納められ、さらにその上にも同じように黄金の棺箱をはめ込んで、その棺箱が十字架になるように造られている。



●解説
文中では聖ソフィア大聖堂は、「バラフヤーゥの子息アーサフが建設したもので、彼は他ならぬソロモン王の母方叔母の子息であると言われる」とあります。これを歴史的事実と異なります。

歴史的事実では、聖ソフィア大聖堂は360年にコンスタンティヌス大帝の子コンスタンティウス2世によって建立されました。つまり、イブン・バットゥータの来訪よりも1000年も前のことです。

しかし後年、聖ソフィア大聖堂は戦乱で消失してしまいます。それを再建しようとしたのが、ユスティニアヌス1世です。そして、537年12月27日に改築は完成します。
このときユスティニアヌス帝は、ソロモン王の神殿を凌駕する聖堂を建てたという思いから「ソロモンよ、余は汝に勝てり!」と叫んだといわれています。
そのとき、古代イスラエル王国ソロモン王の宰相として名高かった「アーサフ」の名前もこの発言時に登場します。

以上のように、かつての伝説がごっちゃになり、聖ソフィア大聖堂はアーサフが設計したというふうにイブン・バットゥータは思ったと推測されています。


さて次に注目すべきは、「その十字架は、イエスの生き霊が磔されたあの聖木の遺宝である」という記述です。
おやっ? エルサレムで処刑されたイエス・キリスト。その十字架がなぜコンスタンティノープルにあるのか?

それは、コンスタンティヌス1世の母フラウィア・ユリア・ヘレナが326年にエルサレムを訪れたことが理由です。
フラウィア・ユリア・ヘレナは、この来訪時に当時はヴィーナス神殿となっていた地をゴルゴタの丘と特定し、そこで十字架3つと聖釘などの聖遺物を発見したといわれています。そして、持ち帰ったのがこの十字架というわけです。


イブン・バットゥータ『大旅行記』年表

★関連記事
正教会3 「神聖ローマ帝国」という東側への対抗システム
東西教会の分裂について触れています。アヤソフィアは分裂後、正教会の総本山となりました。

ラベル:キリスト教
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2012年01月21日

『大旅行記』レビュー 東ローマ帝国皇帝に謁見する

『大旅行記』を読みますと、イブン・バットゥータはさまざまな国の為政者(スルタン、皇帝、王)への面会に成功しています。この事実が『大旅行記』をさらに超一級品の資料にさせています。そして、コンスタンティノープルではなんと
東ローマ帝国の皇帝に謁見しているのです。

東洋文庫『大旅行記4』66頁〜
andro3.jpg皇帝の名前は、タクフール(アンドロニコス3世パレオロゴス)であり、皇帝ジルジースの息子である。現皇帝の父帝であるジルジースは存命中であったが、俗界を去り、修道士となってひたすら祈りのために教会で禁欲的生活を送っており、王位は彼の皇子に譲っていた。

中略

アンドロニコス3世パレオロゴスの肖像画(イコン)


その後、私が壮麗な円蓋堂に着くと、そこには玉座に座った皇帝がおられ、彼の面前には彼の皇后、つまりこのハートゥーンの母君が一緒におられた。玉座の下方にはハートゥーンが姉君と一緒に控えていた。また皇帝の右側には六人の男たち、左側には四人、背後には四人が付いて、いずれも彼らは武器を携帯していた。皇帝は、私の恐怖心を和らげようとのお心遣いからであろうか、私が礼拝してから彼の御前に進み出る前に、まずしばらくは座るようにとの合図をされた。そこで、私はその指示に従ってから、彼のもとに進み出て、立ったまま礼拝すると、彼は私に座るよう合図されたが、私はそれに従わずそのままで立っていた。

すると、彼は私にエルサレム、ベツレヘム、ダマスカス、エジプト、イラクなどについて尋ねられた。私がそれらのことすべてについてアラビア語で返答し、お付のユダヤ人が私と皇帝との間の通訳をしてくれた。私の言うことに皇帝はいたく満足されて、彼の皇子たちに向かって、「この方をくれぐれも丁重に扱い、身の安全を守るように」と言った。続いて、皇帝は私に記念の礼服を下賜され、また私のために鞍と馬勒の付いた馬一頭と王位にある者が頭上にかざす日傘を与えるよう命ぜられた。その日傘は、安全保護の印となるものである。私は、皇帝に毎日、町中を馬に乗って案内してくれる人を指名してくれるよう願い出た。それは、私が町の驚嘆すべきこと、その不思議なことを実際に眼で見て、それらのことを私の故郷で土産話として聞かせたいからであった。すると、彼はそのことで私のために案内人を選定してくれた。



●時代背景
ローマ帝国は395年に東西に分裂。西ローマ帝国は476年に早々に滅亡しますが、東ローマ帝国は1453年まで長く生き続けます。

イブン・バットゥータのこの謁見は、推定で1333年とされています。この頃の東ローマ帝国はすでに斜陽の状態で内紛が絶えませんでした。

そして小アジアで台頭してきたオスマン帝国と何度も開戦しています。このオスマン帝国に最後は滅ぼされます。


●解説
単純ですが大事なことが載っています。イブン・バットゥータが普段話している言葉はアラビア語だということです。それをユダヤ人通訳が、おそらくギリシア語に訳して皇帝に伝えています。


皇帝の名前は「タクフール」とありますが、タクフールとは皇帝の称号を表すアラビア語で個人名ではありません。皇帝の個人名はアンドロニコス3世パレオロゴス(wikipedia)です。

アンドロニコス3世パレオロゴスの父親は、ミカエル9世です。本文には父親の名前はジルジースで、しかも存命で修道士になっているとあります。

これは歴史的事実とは異なります。ミカエル9世はこの出来事の14年前に死去しているからです。よって、文中のジルジースとは彼の祖父であるアンドロニコス2世(wikipedia)と思われます。

アンドロニココス3世は若い頃から素行が悪く、そのため祖父から遠ざけられていました。しかし、祖父に反旗を翻して帝位を奪い、無理やり出家させました。

よって、本文にある「ジルジースは存命中であったが、俗界を去り、修道士となってひたすら祈りのために教会で禁欲的生活を送っており、王位は彼の皇子に譲っていた。」というのは、アンドロニココス3世の陰謀によるものだったんですね。

イブン・バットゥータのコンスタンティノープル滞在は非常に短い期間だったので、おそらくこの事実までは知らなかったものと思われます。


イブン・バットゥータ『大旅行記』年表


ラベル:ユダヤ
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2011年03月26日

正教会6 荘厳なイコンの下で祈る

正教会シリーズも今回が最終回。締めくくりとして、正教会の特徴について触れておきたいと思います。

★指示系統について
正教会の組織は国名もしくは地域名を冠した組織を各地に形成するのが基本です。
 ・ロシア正教会         ・ルーマニア正教会
 ・ギリシャ正教会        ・ブルガリア正教会
 ・セルビア正教会        ・グルジア正教会
 ・日本ハリストス正教会など

各教会はコンスタンディヌーポリ総主教を象徴的に首位としていますが、基本的に独立して運営しています。そのあたりが「フランチャイズ方式っぽい」です。

こうした運営形態になったのは、今まで見てきたように歴史的な背景があります。
東ローマ帝国滅亡後は、ギリシア世界はイスラームのオスマン帝国に支配されてきました。
コンスタンディヌーポリ総主教はイスラームの監視下にあり、カトリックのように教皇が絶大な権限で各教会に指示を出すことが不可能になったことが大きいと思います。

しかし、各教会は運営形態が独立しているだけで、教義の違いから分派したわけではありません。どの教会も正教として同じ信仰を持っています。
ですから「正教会に改宗」は正解ですが、「ロシア正教に改宗」「ルーマニア正教に改宗」といった表現は誤りです。

★表記について
歴史的にギリシャ、ロシアで発展したため、ギリシャ語、ロシア語の読み方がなされます。
 イエス・キリスト→→→イイスス・ハリストス ※ハリストス教会って「キリスト」の意味だったんですね

icon2.jpeg★イコンについて
たいてい正教会の教会には荘厳なイコンがあります。日本のニコライ堂にもイコンがありました。
イコンもギリシャ語由来の言葉で「聖像」という意味です。パソコン用語でよく出てくる「アイコン」はこのイコンが語源だとか。

正教会では、イコンを描く画家については厳格な規定を設けました。イコンを描くことは神に近づく道のひとつであり、イコンを見る他の信者を神に導く道と考えました。
画家は伝道者の一種であるとされ、正教徒以外の者が聖像を描くことは認められませんでした。


これで正教会シリーズも終わりです。
お時間があれば、ぜひニコライ堂を散策してみてください。
ラベル:キリスト教
posted by すぱあく at 08:28| Comment(0) | TrackBack(0) | ヨーロッパ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする