2012年09月10日

陳舜臣 『インド三国志』

tajimahar.jpgインドといえば、なんといってもタージ・マハルが有名です。ムガル帝国 第5代皇帝シャー・ジャハーンが、愛妃マハルを偲んで作らせた墓廟ですね。左右対称の美しいフォルムが、見る人の目を惹きつけて止みません。

さて、肝心のムガル帝国について詳しい人は少ないでしょう。タージ・マハルがこれだけ美しいのに、ムガル帝国の王族と来たら、親子同士で殺し合うのが日常茶飯事というほど血なまぐさい帝国でした


ムガル帝国について知りたい人は、陳舜臣の『インド三国志』がオススメです。第6代皇帝アウラングゼーブのときが舞台です。


ムガル帝国は1526年に建国し、1858年まで続きます。300年以上も続いたのだから、かなりの長期帝国です。しかも、アウラングゼーブはデカン高原も征服し、最大領土を実現した人物です。しかし、作者の陳舜臣は、この『インド三国志』の時代に、すでに滅亡の兆しができ始めていたと考えています。

ここでいう「三国志」とは、以下の3つを指します。
・皇帝アウラングゼーブ率いるムガル帝国 
・風雲児シヴァージーがデカン高原に建国したマラータ王国
・インドに権益を確立しようと暗躍するイギリス東インド会社

この『インド三国志』に登場するシヴァージーは、まだ若いときのものですが、後の1674年にデカン高原でマラータ王国を建国します。その後、ゲリラ戦を展開しアウラングゼーブを苦しめました。

ムガル帝国にとってもうひとつ頭の痛い存在が、海を越えてやってきたイギリス東インド会社でした。イギリスは1600年に東インド会社を設立します。その後、1640年には南インドのマドラス(現・チェンナイ)に貿易拠点を築きます。
以降、イギリスとの貿易によって急成長したインド商人も登場しました。彼らの台頭なども、ムガル帝国の衰退を加速させる要因となりました。

『インド三国志』では、三者それぞれの思惑と行動を絡めながら、やがてムガル帝国の滅亡につながっていくさまが生き生きと描かれています。


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2012年03月12日

『大旅行記』レビュー トゥグルク朝の使節として中国行きを命ぜられる

イブン・バットゥータはトゥグルク朝インドに8年に及ぶ長期滞在をしました。スルタンであるムハンマド=ビン=トゥグルクの覚えめでたいことが、彼にとって何より幸いしました。

その一方でムハンマドは苛烈で残虐な性格で、機嫌が悪くなると側近ですら処刑するほどでした。実は、イブン・バットゥータも危うく処刑されそうになったこともありましたが、機転を利かせて免れました。

このようにいろいろなことがあったインドでしたが、ついに離れる時が来ました。
なんと、スルタンから中国行きの使節に任命されたのです。1342年のことです。

『大旅行記5』354頁
私がスルタンのもとに行くと、スルタンは私が以前に経験したより、さらに鄭重な態度で迎えられ、「そもそもわしが汝のもとに使いをやったのは、そなたがわしに代わって、使者としてシナ王のもとへ赴くためじゃよ。その訳は、そなたが旅と遊覧好きであることを、このわしも知っておるからじゃ」と、スルタンは申された。
そこでスルタンは私が必要とする一切のものを準備し、また私に随行する旅の同行者として、後に述べる人たちを指名されたのである。


『大旅行記6』16頁
かつてシナの王(1)は、(トゥグルク朝インドの)スルタン(ムハンマド=ビン=トゥグルク)のもとに贈り物(2)を贈って、(ヒマラヤ山脈の)カラージール山の一地区に偶像の家(寺院)を建立する許可を求めてきた。それがある場所は、サムハルと呼ばれるところで、これまでシナ人たちはそこに巡礼を行っていたが、インドのイスラム軍がそこを占領して、破壊と略奪を行った。
この贈り物がスルタンのもとに到着すると、早速、スルタンは次のような返書をシナ王に送った。「そもそも、このような御申し出については、イスラムの信仰に照らすならば、これを完全に遂行することは許されぬが、人頭税(ジズヤ)(3)を支払う者に限っては、イスラム教徒の地で寺院(カニーサ)を立てることが許されようぞ。されば、御身がもしその義務を果たす御意志がおありならば、われらはその建設をそなたに許可するであろう。常に、神の正しき導きに従わんとする者に、平安あらんことを!」
そして、スルタンは返礼として、その贈り物に対して、それを上回る品々で報いられた(2)

★解説
当時は元朝だった中国から使者がトゥグルク朝インドにやってきて、「元朝とトゥグルク朝インドの国境に近いカラージール山の一地区に寺院を建立したい」と言ってきたとあります。それへの返答をするため、贈り物を携えた使者団を派遣することになり、イブン・バットゥータもスルタンの命により使節団に加わりました。

ToghunTemur.jpg(1)シナの王
当時の元朝皇帝は、トゴン・テムル(順帝、在位1332年〜1370年)でした。彼は元朝最後の皇帝です。

トゴン・テムルがトゥグルク朝インドに使節団を派遣したとする中国側の資料は未だ確認されておらず、こういったこともイブン・バットゥータがはたして中国まで行ったのかどうかが怪しい理由のひとつになっています。

ついでに、トゴン・テムルおよび元朝の最期にも触れます。
元朝は内部分裂によって急速に力を失った結果、各地で反乱が相次ぎます。反乱軍のひとつが紅巾党で、その中から朱元璋が登場します。朱元璋は他の反乱者たちをことごとく倒して華南を統一し、1368年に南京で皇帝に即位してを建国しました。
朱元璋は即位するや大規模な北伐を開始して元の都、大都(今の北京)に迫ります。ここに至ってトゴン・テムルは中国統治に見切りをつけ、北のモンゴル高原へと敗走しました。そして、2年後に病死します。
その後、元朝政権は一応続いていくのですが、歴史的にはこれ以降は北元と呼んで別扱いにしています。


(2)贈り物一覧
文中にあるように元朝側の贈り物をはるかに超える量で応えます。対抗心か?
元朝トゥグルク朝

・100人の男女奴隷
・500着のカムハー織りの衣服
 (内100着は泉州産、100着は杭州産)
・5着の宝石を散りばめた衣服
・5つの錦紗を張った矢筒
・5本の刀剣  など















・100人の男女奴隷
・100頭の駿馬
・100着のバイラム織りの衣服
・100反の「ジュッズ」という絹織物
・100着の「サラーヒーヤ」という衣服
・100着のシーリーン・バーフの衣服
・100着のシャーン・バーフの衣服
・500着の山羊毛織りの衣服
・100反のギリシア製亜麻織物
・100枚の敷布
・1張りのサラージャ
・6張りの小型天幕
・4個の黄金製台付き杯
・6個の銀製台付き杯
・4基の黄金製水盤
・6基の銀製水盤
・10着の金錦織り礼服
・10個の縁なし帽
・10個の錦紗を張った矢筒
・10本の刀剣
・1個の宝石を散りばめた手袋
・15人の小姓たち



(3)人頭税(ジズヤ)
ジズヤは世界史の教科書にも出てきましたね。非イスラム教徒に対して一定程度の人権の保障の見返りとして課せられるものです。非イスラム教徒に対しイスラムの優位を誇示する効果がありました。


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ラベル:イスラム教
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『大旅行記』レビュー トゥグルク朝スルタンに債務免除を懇願する

イブン・バットゥータの『大旅行記』を読んでいて、疑問に思うことがありました。
彼は一生のほとんどを旅していたわけですが、その資金はどこから来ていたのか?

caravan.jpgマルコ・ポーロと比較してみます。マルコ・ポーロの一家は商人で、キャラバンを率いて世界の国々を旅していました。つまり、自分たちの旅費はビジネスで稼いで捻出していたのです。

しかし、イブン・バットゥータは商人ではありません。たしかに、彼の旅をバックアップしたのはイスラム商人たちでしたが、それでも資金の問題は必ずついてまわっていたと思われます。
そんなことを考えていたら、明快な答えが『大旅行記』に書かれていました。

なんと、彼はイスラム商人たちから借金をすることで旅費を捻出していたのです。
しかも凄いことに、はじめから踏み倒すつもりで借りていたっぽいのです。

『大旅行記5』325頁
私は、かねて、旅の道中で使った費用や、スルタンへの贈り物として用意したもの、私のデリー滞在中に費やしたものなどのすべての必要費用を数人の商人から借金をしていた。その商人たちが郷国に旅立つことを望んだ際、彼らは私に彼らの貸付金の返済を促した。そこで私は、スルタンを賛美する次のような出だしの長い詩(カスイーダ)を詠んだ。

(※この後、スルタンを称える本当に長〜い詩が続きます。内容は・・・
高貴なること、もし太陽にも優る地位あらば
汝こそ、まさに最も崇高なるに相応しき規範(イマーム)の御方

・・・などと、スルタンを思いっきりヨイショするものです)

私は、以上の詩をスルタンのもとに献じた。その時、スルタンは椅子にお座りになって、膝の上にそれを記した紙を置き、その一端を御手に握り、もう一方の端をこの私がしっかりと持った。私は、その詩句の一行を読み終えるごとに、大法官カマール・ウッディーン・アルガズナウィーに「その意味を世界のご主人様(フーンド・アーラム)に説明下さるよう」申し上げた。すると、彼は説明し、スルタンを楽しませた。彼らインド人たちはことさらにアラビア語の詩を好んでいるためである。そして、上述の私の詩句の中の終盤の部分に来ると、彼は「マルハマ!」と言った。その意味は、「わしは汝に情けを垂れようぞ」ということである。
(中略)
「ハワージャ・ジャハーンのところに行け! そして、あの者の債務が清算されるように、と言ってやれ!」と命ぜられた。

なんか、マンガみたいなやり取りです。
@イスラム商人たちから返済を迫られるイブン・バットゥータ
Aインド スルタンのムハンマド=ビン=トゥグルクに債務免除の相談に行く
Bスルタンのご機嫌を取るために、彼をヨイショする長い詩を延々読み続ける
Cスルタン、すっかりご機嫌になり債務免除を約束する


異国の王宮で法官職として就職したばかりか、スルタンに頼み込んでプライベートの借金を返済してもらおうとしたのです。これぐらいの図太さがなければ、とても三大陸を冒険することなどできないということでしょうか。

実はこの話には続きがあります。
債務免除がすっかりうまく行ったと思って、イブン・バットゥータはウキウキしていましたが、その後スルタン側から連絡がありませんでした。
スルタンは狩猟やらなんやらで多忙になり、それどころではなくなっていたのです。しかも、連絡の行き違いなどもあり、結局、債務免除は保留になってしまいました、というオチまでつきます。

本当にマンガのような話です。

イブン・バットゥータ『大旅行記』年表

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『大旅行記』レビュー 14世紀のインドの物価高騰について言及 

今、欧州経済は危険水域にあり、日本も歴史的な円高で大きなダメージを受けていますが、経済というものはいつの世も変動があります。『大旅行記』では、14世紀のトゥグルク朝インドをおそった物価高騰について言及されています。

『大旅行記5』248頁〜
スルタンがマァバル地方に向けて出立され、首都を不在にされている間に、物価の高騰が起こり、事態は次第に深刻さを増した。穀物の価格は1マンが60ディルハムにまで達し、その後さらに高騰した。状況は窮迫し、ますます悲惨な状態になった。

そうしたときに、私は宰相との接見に出かけたが、その道すがらで3人の女が数ヶ月前に死んだ馬の皮を小さく刻んで、食べているのを目撃した。そうした皮を煮て、市場で売られていた。また一般の人々は牛を屠殺したとき、その血液を取って食べた。

<中略>

状況がさらに切迫したとき、スルタンはデリーの全住民のために6ヶ月分の食料を提供するように命ぜられた。そこで法官たち、書記たちと軍司令官たちは、路地や街区を回って、住民調査を行い、各人に1日当たりの食料――マグリブ地方のラトル単位で1.5ラトルに相当する――6ヶ月分与えた。

その期間を通じて、私は、スルタン、クトブ・ウッディーンの墓廟に供えるために準備していた食料を人々に提供したので、多くの人々の命がそれによって救われた。



●解説
物価高によって食料が買えなくなり、飢えに苦しむ民衆の姿が伝わってきます。

そこでスルタンは、「デリーの全住民のために6ヶ月分の食料を提供」する政策を実施します。これは政府による景気対策の原型といえます。


イブン・バットゥータ『大旅行記』年表

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『大旅行記』レビュー 社長(スルタン)面接を経て王宮で就職決定!!

イブン・バットゥータと面会したスルタンのムハンマド=ビン=トゥグルクは、よほど彼を気に入ったのでしょう。
トゥグルク朝インドの法官職に就くように指示します。

『大旅行記5』321頁〜
宮殿に入って見てみると、スルタンは高殿の上で、玉座に背をもたせかけておられた。一方、カブーラ大王はその前に侍立していた。私がカブーラ大王に挨拶すると、大王は「拝礼せよ! 世界のご主人様は、そなたを王国の都デリーにおける法官に任命あそばされた。そなたの棒給は年間1万2000ディーナールとされ、領地も割り当てられた」と言った。

<中略>
 
スルタンは「デリーの法官職はとても重要な任務だ」と私に言われたが、私は「ありがたいお言葉ですが、私はスンニ派のマーリク派法学を学んでいますが、この国はハナフィー派です。しかも、ペルシア語もわかりません」と話した。
 
すると、スルタンは「安心せい。わしは、すでにバハーゥ・ウッディーン・アルムルターニーとカマール・ウッディーン・アルビジュヌーリーを汝の補佐官に任命している。二人がそなたにいろいろと助言を求めて来ることじゃろう。しかるに、そなたとしては法廷議事録を記録すればよいのじゃよ。そなたはわれらにとれても子息も同然じゃからな」と言われた。



●解説
社長(スルタン)がイブン・バットゥータを法官職に任命し、給料(年間1万2000ディーナール)まで詳細に決めていました。
しかし、イブン・バットゥータは一回、固辞します。「いや、無理ですって、私はペルシア語が話せませんし・・・」

すると社長(スルタン)は「大丈夫。有能な同僚を二人も付けるから」といい、結局、インドという旅先の王宮で就職が決定します。イブン・バットゥータは、この後8年間も法官職を務めます。

なんという逞しさでしょうか。ちょっと信じがたいです。彼なら、間違って当時の日本に漂着しても室町幕府でシッカリ働いていたような気もします。


イブン・バットゥータ『大旅行記』年表

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『大旅行記』レビュー トゥグルク朝スルタンに謁見する

イブン・バットゥータは、トゥグルク朝インドの第2代スルタンムハンマド=ビン=トゥグルク(wikipedia)にも謁見しています。
これだけ訪問する国々の君主という君主に謁見できるって、ちょっと凄過ぎじゃないですか。

『大旅行記5』313頁〜
私がスルタンに近付くと、やがてスルタンは私の手を取って握手し、その手を握ったまま放さずに、この上なき丁重なお言葉で呼びかけはじめ、ペルシャ語で「汝の来朝は、慶賀に堪えぬことだ。さてもさても、よくぞ来られた。まずはくつろがれるがよい。わしは、汝に何かと温情をかけて進ぜようぞ。汝の郷国の者たちが噂を伝え聞き、汝のもとに集まり来るほどの手厚い授け物も進ぜようぞ」と私に申された。

それに続いてスルタンは、私の国はどこかと尋ねられたので、「マグリブ地方でございます」と返答すると、御方は「では、アブド・アルムゥミンの御国か?」と聞かれた。そこでは私は「さようでございます」と言った。

スルタンからの厚い言葉を賜るたびに、私は御方の手に口付けし、それが7回にも及んだ。やがてスルタンから記念の礼服を賜った後、私は退席した。



●解説
下線部の部分、何気に凄いので注目してください。
スルタンが「汝はどこの国から来たのか?」と聞いたのに対し、
イブン・バットゥータは「(北アフリカの)マグリブ地方です」と答えました。

すると、スルタンは「では、アブド・アルムゥミンの御国か?」と聞きます。
このアブド・アルムゥミンとは、ムワッヒド朝(1130年-1269年)を建国した初代カリフのアブド・アルムゥミン(wikipedia)のこと。
1269年にマリーン朝に滅ぼされ、イブン・バットゥータがいた時代のマグリブ地方はマリーン朝の政権下にありましたが、スルタンが言ったことは間違ってはいません。

14世紀当時、インドのスルタンが北アフリカの情報を知っていたことに驚きです


イブン・バットゥータ『大旅行記』年表


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