2011年07月13日

さかのぼりスペイン史5 太陽の沈まない帝国

これまで散々な負け犬ぶりだったスペイン近現代史を見てきました。しかし、今回はその逆。スペインがもっとも輝かしかった大航海時代を見ていきます。

スペインの新大陸への動きは、レコンキスタ(国土回復運動)の末期と重なります。
Columbus.jpgスペイン黄金時代のキッカケは言うまでもなく、クリストファー・コロンブスによる新大陸(アメリカ大陸)航路の発見でした。
コロンブスは、スペインに来る前にポルトガルで売り込みをしましたが、ポルトガルはすでに喜望峰の直前にまで到達していたため、冷たくあしらわれます。失意の中、再起をかけてスペインにやって来たというわけです。

スペインは隣国ポルトガルに比べて、大航海時代への船出が遅れていたこともあり、イザベル女王はコロンブスの話を熱心に聞き、支援することを決定します。
コロンブスと新大陸を巡る逸話はそれだけで大作映画になるほどなので、いずれかの機会に述べることにします。

以後、スペインによる新大陸への入植が盛んになります。その先兵となったのがコンキスタドール(征服者)と呼ばれる人物たちでした。
代表的な人物がエルナン・コルテスフランシスコ・ピサロです。コルテスは、1519年から1521年にかけてアステカ帝国(今のメキシコ中央部)を征服。ピサロは1532年から1535年にかけてインカ帝国(今のペルー、ボリビア、エクアドル付近)を征服します。
キリスト教主義の彼らの目には、先住民の文化は「野蛮」としか写らず、破壊・略奪をなんの躊躇もせずに徹底的に行いました。

実は、コロンブス自身も新大陸に到達後、相当数の先住民を虐殺しています。コロンブス以後の1世紀半で、アメリカ大陸の先住民族人口は80%急減した(1492年の5000万人から1650年の800万人)といわれています。

アメリカ大陸の先住民はインディオと呼ばれ、奴隷労働によって金や銀を採掘させられます。ポトシやグアナフアトなどの銀山から流出した富は、スペインをさらなる強国にしていきます。またこの金銀は、オスマン帝国やイギリスとの戦争がキッカケとなり、西ヨーロッパ各国にも流出し、欧州諸国を豊かにしていきました。

その後もスペインの成長は止まりません。1496年、スペインの主要国家であるカスティーラ国の女王フアナがハプスブルク家のブルゴーニュ公フィリップと結婚します。1500年、この2人の間にカルロス1世が生まれます。彼は母からスペインと新大陸を、父からオーストリアとネーデルランドを相続します。1516年にスペイン王に即位し、ここからスペイン王家はハプスブルグ家になります。そして、1519年、このカルロス1世が、神聖ローマ皇帝カール5世としても即位し、ヨーロッパ中に絶大な影響力を持つようになります。

カルロス1世の退位後は息子であるフェリペ2世の治世になります。1580年、ポルトガル王国のエンリケ1世が死去しアヴィシュ王朝が断絶したため、スペイン王がポルトガル王も兼務することになります。このとき、ブラジルなどポルトガルが所有していた領地もスペインのものになります。

Iberian_Union_Empires.pngヨーロッパが夜のときでも、植民地の新大陸は太陽が昇っている。文字通り「太陽の沈まない帝国」、スペイン全盛期を迎えます。

右図は、スペイン・ポルトガル同君連合(1580年–1640年)時代のスペイン帝国の版図。赤がスペイン領、青がポルトガル領。

これにてさかのぼりスペイン史は一旦終了。
スペイン史をさらに遡ると、イスラームの支配とレコンキスタ ←西ゴート王国の建国 ←600年のローマ支配がありますが、またいずれかの機会に述べたいと思います。


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2011年07月12日

さかのぼりスペイン史4 斜陽の帝国

armada.jpg大航海時代の覇者として、世界各地に植民地を獲得し、ついに「太陽の沈まない帝国」を築き上げたスペイン。それが1588年のアルマダの海戦無敵艦隊がイングランドに敗北してから、徐々に力を失っていきます。

アルマダの海戦に敗北したときのスペイン王はフェリペ2世。それまで連戦連勝でスペインを世界帝国に押し上げた最盛期の王でしたが、この敗北で勢いはストップし、10年後の1598年に彼が死去するときには、すでに「スペインの世紀」は終わりつつありました。スペイン帝国の全盛期については、次々回で述べます。

1640年にはポルトガル王政復古戦争により隣国のポルトガルが独立します。といっても、これまでポルトガルがスペインの属国だったわけではありません。
そもそもスペイン王国そのものが、カスティーリャ王国、アラゴン王国、レオン王国、ナバラ王国、カタルーニャ君主国などの同君連合によって成立していました。これに1580年に王家が断絶してしまったポルトガル王国が加わっていたという感じです。
この連合王国や連邦制は、他国と地続きになったことがない日本人には、実感が持ちにくい概念です。

次いで1648年、ウェストファリア条約によってオランダの独立を承認。1568年から始まったオランダ独立戦争でしたが、80年かけて(よって「八十年戦争」ともいう)ようやく終結しました。

さらに、18世紀初頭のスペイン継承戦争(1701年 - 1713年)が衰退の極みとなりました。これは断絶した王家の後継者を巡って、ヨーロッパ各国の策謀が衝突した戦争です。
当時のスペイン王家はハプスブルク家でした。「えっ? あのオーストリアの?」
そうです。ハプスブルク家の家訓は「戦争は他家に任せておけ。幸いなオーストリアよ、汝は結婚せよ」で、他国にどんどん嫁がせ、いつの間にかその国を支配する「結婚政策」をとっていました。
その甲斐あって、スイス北東部の小貴族だったのが、いつの間にか神聖ローマ帝国皇帝を独占し、いつの間にかスペイン王家も手中に入れていました。
ところが、近親結婚を繰り返すうちに病弱な王が相次ぎ、スペイン・ハプスブルク家も1700年、虚弱なカルロス2世の死によってついに断絶します。

そこへ乗り出してきたのが、フランスでした。フランス王ルイ14世の妻マリー・テレーズ・ドートリッシュは、カルロス2世の姉でした。ですから「血縁のフランス王家からスペイン王を出す」と主張し、アンジュー公フィリップがスペイン王フェリペ5世として即位します。

これにフランスの強大化を恐れた他国が反発します。オーストリアがイギリス、オランダと大同盟を結び、フランス、スペインに宣戦布告しました。
はじめは国VS国の戦争でしたが、そのうちスペインの内戦に発展します。スペイン王国は、連合王国なわけですが、政治の中心であるカスティーリャ王国に反発するカタルーニャ君主国、アラゴン王国などが反旗を翻したのです。う〜ん、スペインは昔から内紛ばっかですね。連合王国のもろさでもあります。

1713年、長い戦いで疲弊した各国はユトレヒト条約を結び、戦争を終結させます。この条約でスペインはオーストリアにスペイン領ネーデルラント、ナポリ王国、ミラノを割譲します。イギリスにもジブラルタルとメノルカ島及び北アメリカのハドソン湾、アカディアを割譲します。その代償としてフェリペ5世のスペイン王即位を承認します。

戦後、フェリペ5世は、カスティーリャ王国とアラゴン王国を統合して、スペインを真に一つの国家としました。連合王国による分裂を防ぐためです。
以降、フェリペ5世のボルボン家がスペイン王家となり、現在まで続いています。ボルボン家はフランスの制度を導入して行政と経済の近代化を行い、一旦瓦解したスペイン帝国は18世紀に復興します。中南米の植民地もまだ健在で、貿易も急成長します。

しかし、19世紀に入りこの成長をストップさせる人物が登場します。それが前回に述べたフランスのナポレオンでした。


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2011年07月11日

さかのぼりスペイン史3 長く続く混乱の時代へ

スペインは、隣国だけにフランスの政変の影響をモロに受けます。
フランス革命のときもそうでした。革命の波及を恐れた各国は、1792年フランス革命政府(ジロンド派内閣)に対し、次々に宣戦布告します(フランス革命戦争)。スペインもこれに参戦しますが、フランス軍にこてんぱんにやられてイッ気に弱体化します。

その後、フランスではナポレオンが台頭し、全ヨーロッパを巻き込む戦いを展開します。ナポレオンは弱体化したスペインを手中におさめるため、兄のジョゼフ・ボナパルトホセ1世としてスペイン王に即位させます。
これには民衆が猛反発し、1808年3月にマドリードで反乱を起こします。これがスペイン全土へ広がり、いわゆる
スペイン独立戦争半島戦争)に突入します。

goya.jpgナポレオンは自ら兵を率いてスペインに介入します。マドリードでは、フランス軍による虐殺なども起こり、スペイン最大の画家ゴヤは、怒りを込めて「1808年5月3日、プリンシペ・ピオの丘での虐殺」を描きます。

侵略してきたフランス軍に対し、スペイン・イギリス・ポルトガルが連合で対抗します。とくにスペインはゲリラ戦を展開して抵抗します。そのうち、ナポレオンはロシア遠征の大失敗なども重なり、撤退を余儀なくされます。ホセ1世も亡命し、ボルボン家のフェルナンド7世が復位します。

なんとかフランスを追い出したものの、全国土が焦土と化しスペインは大混乱に陥ります。この本国の混乱に乗じて
植民地が次々に独立していきます。
1811年独立  ・パラグアイ  ・ウルグアイ(その後ブラジルに支配されるが1828年に独立)
1816年独立  ・アルゼンチン
1818年独立  ・チリ
1819年独立  ・コロンビア
1821年独立  ・メキシコ  ・エルサルバドル  ・ニカラグア  ・グアテマラ  ・ホンジュラス  ・コスタリカ
ペルー  ・ベネズエラ  ・ドミニカ共和国(その後ハイチ、再びスペインに支配されるが1865年に独立)
パナマ(その後コロンビアに支配されるが1903年に独立)
1822年独立  ・エクアドル
1825年独立  ・ボリビア
1838年独立  ・ホンジュラス

スペインの富を支えていた植民地をイッ気に失ったことで経済が破綻し、政治も混乱を極めます。王制打破の動きが活発になり、1873年には共和制政権(スペイン第一共和政)が誕生しますが、まったく安定性に欠け翌年には王政復古します。

この混乱の最中にフィリピンとキューバで独立運動が発生し、さらにアメリカが介入して、1898年に米西戦争が勃発します。この戦いでもスペインは敗北し、同年にフィリピンが独立(その後アメリカに支配されるが1946年に独立)。1902年にキューバが独立(その後アメリカに支配されるが1959年に独立)します。

もう他国との戦争どころではなく、第一次世界大戦では中立を保ちます。しかし、大戦によってインフレが拡大し貧民層はさらに困窮していきます。結果、共産党などによる労働運動や暴動、独立を目指すカタルーニャやバスクにおけるテロ活動などが相次ぎます。
1923年にはプリモ・デ・リベーラ将軍がクーデタを起こして政権を握り、テロや労働運動は一旦は収束するものの、独裁の長期化を恐れた層からの圧力により1930年に退陣。
その後は民主化を望む声が大きくなり、1931年に国王アルフォンソ13世は退位し、第二共和政が成立するというわけです。その後の展開は前回までに述べたとおりです。

結局、スペイン帝国は坂を転げ落ちるように没落し、経済破綻と政治分裂を長い間繰り返してきました。真の意味でひとつにまとまるのは、フランコ独裁政権まで待たなければなりませんでした。


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2011年07月10日

さかのぼりスペイン史2 スペイン内戦

1931年にせっかく王制から無血革命で民主化したのに、まったく機能しない議会政治に絶望し、1936年7月に軍部がクーデターを起こします。スペイン内戦の始まりです。

franco.jpgスペイン内戦の中心人物は間違いなくフランシスコ・フランコ将軍ですが、当初から表舞台にいたわけではありません。反乱を起こしたのは、サンフルホ将軍やエミリオ・モラ・ビダル将軍といった面々で、フランコはそれに加わった将軍のひとりに過ぎませんでした。

ところが、サンフルホ将軍が飛行機事故で死亡し、その他の反乱軍が敗北を重ねるなか、フランコはトレドを陥落させるなど戦功がめざましいため、1936年10月1日に反乱軍の総司令官兼元首に選出されます。

このスペイン内戦は単純にいえば、反乱軍 VS 共和国軍の戦いですが、それぞれの構成勢力・支持層は、諸派入り乱れており、整理して見ていかないとさっぱり理解できません。

まず、共和国政府ですが、当時政権を担当していた「人民戦線」という組織は、前の選挙で右翼政権に勝つために集まった連立集団でした。メンバーは共和左派、社会党、共産党など反右翼勢力のすべて。要するに寄せ集め集団で、内戦の終盤には激しい仲間割れを起こします

では、それぞれの陣営の支持層を見て行きます。
反/政反乱軍(フランコ側)共和国軍(人民戦線)
支持層教会、地主、資本家、外交官、秘密警察共和制支持者、左翼政党、労働者、バスク独立運動勢力
支持層(軍部)陸軍15万人(下士官が多い)、海軍の機関将校陸軍16万人(高級士官が多い)、空軍のほとんど、海軍の水兵など

軍部の中でも共和国軍についた者も相当数に上っており、単純な「軍部の反乱」ではなかったことがわかります。
実は、フランコ将軍の親族も兄は反乱軍に、弟と従兄弟は共和国軍にわかれて戦っています

一体どうすれば、こんなグチャグチャになるのでしょうか。
しかしよく考えてみれば、日本の民主党でさえ、小沢派やら菅派やらでグチャグチャしています。
スペインのように、民族、宗教、イデオロギー、貧富の差、地方や植民地の独立運動などが加わったらどうなるか、スペイン内戦は人間社会の分裂劇の見本だったのかもしれません。


さて、この内戦に周辺各国はそれぞれのスタンスで望みます。
反乱軍を支持共和国軍を支持中立
ドイツ、イタリア、ポルトガルソ連、メキシコ、国際旅団イギリス、フランス

・ファシズムに対して宥和政策をとっていたイギリスは、内戦への干渉が世界大戦を誘発することを恐れて中立を選びました。フランスもこれに同調します。
・ソ連は、共産党の勢力を伸ばすために共和国軍を支援します。メキシコも支援に動きますが、派兵はごくわずかでした。
・ドイツのヒトラーはフランコ将軍への支援を決め、航空部隊を送り込みます。ナチス・ドイツにとっては新兵器や新戦術を試す格好の実験場となりました。
・国際旅団というのは、国際共産党機関「コミンテルン」より派遣された義勇兵です。55ヶ国4万人ほどの青年と2万人に及ぶ医療関係者からなります。その大多数は労働者であり、85%が共産党員でした。
アメリカの小説家アーネスト・ヘミングウェイもこの旅団に参加し、その経験によってスペイン内戦を題材にした『誰がために鐘は鳴る』(1940年)が生まれます。1943年にゲーリー・クーパーイングリッド・バーグマンの主演で映画化もされました。
hemingwei.jpg   bell.jpeg

さて、スペイン内戦の戦局について述べます。
反乱が起きて1〜2ヶ月でスペインの半分が反乱軍の手に落ちます。しかし、1936年秋の反乱軍による首都マドリードへの攻撃は、共和国軍の反撃で挫折します。そこで、フランコは共和国側が支配している地域を少しずつ侵食する作戦をとります。

1937年4月19日、フランコはミニ政党ファランヘ党を母胎に他党を統合し新ファランヘ党を組織、その党首に就任します。これがその後のフランコ独裁の支持基盤になります。

1937年4月26日 バスク地方の都市ゲルニカが、ドイツとイタリアによって爆撃されます。これは世界で初めての市街地に対する大規模な無差別攻撃となりました。わずかに24機の爆撃機で、市街の70%近くが破壊されたといわれています。ピカソの絵があまりにも有名です。
Guernica.jpg  picaso.jpeg

共和国軍の旗色は日に日に悪くなっていきましたが、あろうことか内部で仲間割れを起こします
人民戦線を構成していた共産党が、ライバルを排除し主要ポストの独占に走るという愚挙に出ます。1937年5月には、バルセロナで反共産党系のマルクス主義者労働党と、共産党が市街戦を繰り広げます。共産党はさらに他の組織を次々に粛清し、共産党内閣を成立させます。

こんな感じで内部闘争していたら、そりゃもう勝てませんて。1939年、最後までもちこたえていた臨時首都のバルセロナが陥落。そして、ついに3月27日に首都のマドリードが陥落し、名実共に共和国政府は消滅しました。
4月1日、フランコによって内戦終結宣言が出されます。

内戦に勝利したフランコ側は、人民戦線派の残党に対して激しい弾圧を加えます。軍事法廷は人民戦線派の約5万人に死刑判決を出し、その半数を実際に処刑しました。
また、自治権を求めて人民戦線側に就いたバスクとカタルーニャに対しては、バスク語、カタルーニャ語の公的な場での使用を禁じるなど、その自治の要求を圧殺します。この火種は今日まで続いています。

スペイン内戦は終結しましたが、世界の戦争への勢いはストップしません。
内戦終結の5ヶ月後、1939年9月1日、150万人のドイツ軍がポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が勃発します。
ヒトラーは、スペイン内戦ではフランコを強力に支援しましたので「もちろん、今度は俺らに協力するよなぁ」と言って来ます。

しかし、フランコは、日本の政治家のようなあいまいな態度を繰り返し中立を維持します。
内戦からの復興が目的だったと思いますが、結果的にナチスの毒牙を免れます。

以降はフランコの独裁体制ではありますが、スペインはひとつとしてまとまることができました。何百年と内紛でバラバラだったスペインをまとめたフランコの手腕は、評価されています。私たちが一般的に持っている「独裁者」のイメージとはかなり異なる変わった独裁者だったと言えます。

spain_war.jpgところで、このスペイン内戦にはヘミングウェイのような作家に加え、戦場ジャーナリストやカメラマンも加わり、戦争で行われた残虐な行為が世界中に発信されていきました。なかでも、写真家ロバート・キャパ「崩れ落ちる兵士」は有名です。

当時のメディアの論調はフランコ率いるファシストが悪防戦する共和国軍が正義という図式が一般的で、内戦が終結した後もそのような評価が主流でした。
しかし、時が経過してスペイン内戦を再評価したとき、単純な善悪では図れないことがわかります。共和国軍の醜い内部闘争はどう考えても国民不在の愚挙でした。
今、私たちもそれに近い光景を日本の国会内部で目の当たりにしています


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2011年07月09日

さかのぼりスペイン史1 ボルボン朝の王政復古

日本のメディアにおけるスペインの情報はごくわずかといえます。
サッカー(リーガ・エスパニョーラ)、厳しい経済状況、ラテン系の明るい国民性、マドリードやバルセロナといった観光地の情報が主ですね。

また、一般的に高校の世界史は、近現代史の部分を非常に早いテンポでこなします。その中でもスペインの近現代史は重要度が高いとはいえません。ですから、スペイン王政復古の経緯は日本ではほとんど知られていません。

まず、現在のスペイン王は誰でしょうか?
CarlosI.jpgフアン・カルロス1世、この方です。1938年生まれ、今年で73歳になります。
王家はボルボン家。ボルボンとは、ブルボンのスペイン語読みで、フランス・ブルボン朝の末裔です。ヨーロッパの各王室は国を跨いで政略結婚を繰り返してきましたから、このようなことは珍しくないんですね。

1975年11月20日、独裁政権を率いていたフランシスコ・フランコが死去すると、フアン・カルロス1世はフランコの遺言に従って11月22日にスペイン王として即位しました。

独裁者フランコ総統はなぜ王政復古を目指したのでしょうか?

まず、フアン・カルロス1世の生い立ちを見て行きます。
彼の祖父であるアルフォンソ13世の頃までは、まだスペインは王制でした。しかし、王制打倒を目指す共和派は民衆の支持を集めるようになり、1931年の選挙で躍進します。このような情勢下、国王アルフォンソ13世は退位へと追い込まれ、無血革命による第二共和政が成立しました。退位したアルフォンソ13世は家族とともにイタリア王国のローマへ亡命します。
そして、亡命先のローマでフアン・カルロス1世は、バルセロナ伯爵フアン(アルフォンソ13世の四男)の長男として誕生します。

さて、共和政となったスペインですが、政治的対立が続発しまったく安定しませんでした。失業者は増える一方で、激しいデモやテロが各地で起こります。
政権もコロコロ変わり、民衆は議会制民主主義に失望し、ファシズム政権への期待が高まります。

今の日本の政治も迷走しまくっていますね。こうした失望感がファシズムやナチズムの台頭を招いたというのもなんとなくわかります。「大連立でも、独裁でもいいから原発なんとかしてくれよ」というのが、今の日本人の声ではないでしょうか。

さて、話を戻しますと、1936年7月「もう今の政府はダメだな」と見切りをつけた軍部がクーデターを起こします。その中心人物がフランシスコ・フランコ将軍でした。
反乱はスペイン全土に及びます。これが1939年4月1日まで続いたスペイン内戦です。
このスペイン内戦は、大変に濃い内容なので次回に詳しく述べます。

1939年、フランコ側の勝利によって第二共和政は終焉を迎え、フランコを国家元首(総統)とする独裁体制ができあがります。第二次世界大戦では中立を維持し、戦後も唯一のファシズム国家として存続します。

一方、フアン・カルロスが亡命していたイタリア王国は、第二次世界大戦では戦敗国となります。ムッソリーニは処刑され、国民の信頼を失った王家は、国民投票の結果を廃位が決定します。フアン・カルロス一家は、共和制イタリアに留まることができなくなり、1948年にスペインに戻ります。
それを迎えたのがフランコでした。フランコはフアン・カルロスを次代の指導者とするべく教育を受けさせます。

従来のフランコ像は、スペインを苦しめた独裁者というマイナスイメージが強くありました。とくにピカソの「ゲルニカ」ヘミングウェイの「誰がために鐘は鳴る」といった作品がそれに拍車をかけました。
しかし、単なる独裁者だったら、自分の一族を後継に据えたのではないでしょうか。事実、サダム・フセインや金日成といった独裁者はそのようにしています。
わざわざ、失脚した王家の人物を教育したりするでしょうか。

やはり、近年になってフランコの再評価が始まっています。色摩力夫氏の『フランコ スペイン現代史の迷路』(中公叢書)が詳しいです。
本書によると、フランコは政権のあり方について、最終的には王制に移行するべきだと考えたようです。そもそもスペインという国は、無敵艦隊の没落後、何百年にわたって内紛を繰り返してきました。国内に統一感がなく、議会制民主主義も結局うまく行きませんでした。「この国は王制が最良かもしれない」とフランコは考え、フアン・カルロス1世を迎え王政復古することを遺言に盛り込みました。

実際、フランコという人物は、ドラマティックな要素がほとんどないおもしろくもおかしくもない人物だったようです。「私がフランスそのものだ」と言って常にドラマティックだったシャルル・ド・ゴールと全く対照的です。
ただ、典型的な武人で、彼自身は私利私欲に走らず清廉潔白であったとか。マシーンのごとく仕事を行い、事実仕事はできる人物でした。
スペイン近代化の礎を築いたことは、とくに再評価されているようです。

さて、1975年にフアン・カルロス1世は即位し、ボルボン朝が復活します。フランコの元で帝王学の教育を受けていたこともあり、そのまま独裁体制を取るかと思われていましたが、即位後は一転して政治の民主化を推し進め、急速に西欧型の議会制民主主義および立憲君主制国家への転換を図ります。
1978年に議会が新憲法を承認し、正式に民主主義体制へ移行します。
このスムーズな民主化は「スペインの奇跡」と呼ばれました。

f1.jpgところでフアン・カルロス1世は、かなりのスポーツ好きです。なんとヨットの代表選手としてミュンヘンオリンピックに出場(1972年)したこともあります。
そういえば、麻生太郎元首相もモントリオールオリンピック(1976年)にクレー射撃の日本代表で出場していましたね。

また、F1やMotoGPなどのモータースポーツの大ファンで、スペインGPには毎年来場しています。写真はスペイン人のトップF1ドライバーフェルナンド・アロンソを祝福するフアン・カルロス1世。

spain.jpg2010年南アフリカワールドカップでスペイン代表が優勝したときは、代表選手たちに「スペインおよびスペイン国民の名において、チャンピオンたちにお礼を述べる」と言葉をかけたそうです。

このときのスペインのプレイは素晴らしかったですね。初戦でつまずきましたが、その後は抜群の安定感と組織力で初優勝を果たしました。

さて、次回はスペイン内戦について見て行きます。それでは、また。



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2008年12月31日

スペイン史 年代別記事一覧

先史時代 (〜紀元前12世紀頃)


古代 (紀元前12世紀頃〜紀元前205年)


ローマ帝国時代 (紀元前205年〜)


西ゴート王国 (4世紀頃〜711年)


ウマイヤ朝 (711年〜750年)


後ウマイヤ朝 (756年〜1031年)


カスティーリャ王国 (1035年〜1492年) ※スペイン王国のなかで1715年まで継続
アラゴン王国 (1035年〜1492年) ※スペイン王国のなかで1715年まで継続


ナスル朝 (1232年〜1492年)


スペイン王国 (1492年〜) ※カスティーリャ王国とアラゴン王国の合併によって成立
:スペイン・ハプスブルク朝 (1516年〜1700年)
さかのぼりスペイン史5 太陽の沈まない帝国

:スペイン・ブルボン朝 (1700年〜)
さかのぼりスペイン史4 斜陽の帝国

:ナポレオンの侵攻とスペイン独立戦争 (1808年〜1814年)
さかのぼりスペイン史3 長く続く混乱の時代へ

:スペイン・ブルボン朝〔第1次復古〕 (1813年〜1868年)

:スペイン第一共和制 (1873年)

:スペイン・ブルボン朝〔第2次復古〕 (1874年〜1931年)
:プリモ・デ・リベーラ独裁政権 (1923年〜1930年)

:スペイン第二共和政 (1931年〜1939年)
:スペイン内戦 (1936年〜1939年)
さかのぼりスペイン史2 スペイン内戦

:フランコ独裁 (1939年〜1975年) ※フランコ総統による独裁

:スペイン・ブルボン朝〔第3次復古〕 (1975年〜)
さかのぼりスペイン史1 ボルボン朝の王政復古
・2010ワールドカップ 南アフリカ大会で初優勝 ― ワールドカップに見る宗主国と植民地の関係


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