2014年10月09日

日本史における「万能の人」、細川幽斎

レオナルド・ダ・ヴィンンチに匹敵する「万能の人」が、日本史にいただろうかと考えてみました。「平均的」であることが美徳とされる日本。最近ではさらに拍車がかかり、幼稚園などの運動会では順位をつけないようにしているとか。なんというか、突出した人物が登場しにくい社会です。hosokawa.jpgしかし、これは現代の価値観ですから、過去にはいたかもしれません。調べてみたら、いました。ダ・ヴィンチといい勝負をしそうな人物が

それが細川幽斎(ほそかわ ゆうさい、1534年〜1610年)。といっても、歴史好き、戦国ファンでなければ知らないかもしれませんね。NHK大河ドラマ『軍師官兵衛』にも登場しています(演:長谷川公彦)。また、細川護熙元首相の17代前の先祖です(系図はコチラ)。

本名は細川藤孝(ふじたか)。文化人としては元々有名でしたが実は武力も相当なもので、知れば知るほど反則級の天才であることがわかります


実は大剣豪
細川氏は、清和源氏の名門足利氏の支流。名家の多くが断絶したり滅亡してきたなか、現在の細川護熙元首相まで続く超名門です。
 ・源氏を紐解いてみる
室町時代になると、幕府で将軍に次ぐ重職である「管領」(かんれい)に就く家柄となります。とはいえ、藤孝が生まれた頃はすでに戦国時代に突入しており、細川氏内部でも争いが起こっていました。分家に生まれた藤孝でしたが、守護大名を務める細川氏の養子となり家督を継ぎます。
hosokawa02.png
その後、藤孝は室町幕府の幕臣として13代将軍足利義輝(あしかが よしてる)に仕えます。足利義輝といえば「剣豪将軍」の異名を持つほどの達人。彼に剣術を指南したのは、生涯無敗の大剣豪・塚原卜伝(つかはら ぼくでん)でした。
 ・剣豪将軍・足利義輝
そして、藤孝もこの塚原卜伝の弟子と言われています。剣の腕前はもちろん、京都の路上で突っ込んできた暴れ牛を角を掴んで投げ飛ばしたほどの怪力だったそうです。その他、武田流の弓馬故実(弓術・馬術・礼法)も相伝され、武芸百般に通じていました。
右は『戦国IXA』における細川藤孝。従来の文化人のイメージではなく、武人のイメージを強調しています。


明智光秀の友人ではあるが・・・
よくドラマや小説などでは、細川藤孝と明智光秀は友人という描かれ方をしています。事実、二人には足利義昭を将軍にしようという共通の目的がありました
1565年、藤孝が仕えていた将軍・足利義輝が、三好三人衆&松永久秀に暗殺されました。同時に、義輝の弟で出家していた後の足利義昭も幽閉されてしまいます。
藤孝は義昭を救出し、越前国の朝倉義景を頼って義昭を将軍にしようと奔走。このとき、朝倉氏に仕えていた明智光秀と知り合い、彼を通じて尾張国の織田信長につながっていきます。そして、義昭は信長によって、晴れて室町幕府の将軍になることができます。
1577年、細川藤孝は明智光秀の軍に加わって、かつての主君の敵である松永久秀を討伐しています。また、信長の薦めによって嫡男細川忠興と光秀の娘・玉(細川ガラシャ)が結婚します。

ここまで仲が良かった二人ですが、明智光秀が本能寺の変を起こして信長を殺してからは、事態が急変します。光秀は当然のごとく、藤孝を自軍に加えようとします。しかし、藤孝は出家して細川幽斎と名乗り、光秀の誘いを拒否します。そうこうしているうちに、光秀は豊臣秀吉に討伐されてしまいます。幽斎は友情よりも大局を優先したのでした。


文化人としても反則級のスキル
幽斎は秀吉からも重用され、千利休らと共に当代一流の文化人として名を馳せました。その多才ぶりは反則級で、茶道、歌道、料理、蹴鞠、囲碁、能楽などどれも一流の腕前でした。しかも彼は、この多才によって命を救われることにもなるのです。

秀吉の死後は、家康に接近する幽斎。関ヶ原の戦い直前の1600年、長男の忠興は、家康と敵対していた上杉景勝を征伐するために会津に向かいます。そのため、幽斎が住む丹後田辺城(現・京都府舞鶴市)には500人程しか残っていませんでした。ここに、石田三成が派遣した軍勢が攻め込んできます。その数、1万5000人。細川幽斎、絶体絶命の危機到来です。
しかし、田辺城はなかなか落ちません。実は攻め込む三成の軍勢の中にも幽斎の歌道の弟子たちが多くいたのです。攻めにも手加減が加えられていたようです。
さらに、弟子の一人には当時の天皇、後陽成天皇の弟までいました。天皇兄弟は、幽斎が討ち死することを心配していました。それは、彼が「古今伝授」と呼ばれる古今和歌集研究の伝承者でもあったからです。彼が死ねば古今伝授が喪失する。そうさせないために、後陽成天皇は勅命を出して、この戦いを停止させました。絶体絶命の危機を脱した幽斎。まさに「芸は身を助ける」です。天皇や時代をも動かしてしまうのですから、細川幽斎おそるべしです。

関ヶ原の戦い以後、幽斎は京都で悠々自適な晩年を送り、1610年に享年77歳で死去します。その後の細川氏は、忠興が豊前小倉藩に39万9千石を得て、その子である3代・忠利のときには肥後熊本藩54万石と大繁栄します。現代では首相まで輩出してしまうのですから、いやはやとんでもない一族ですね。


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posted by すぱあく at 06:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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