2014年03月17日

國學院大學と日本大学と近畿大学のちょっとした関係

3月16日のニュースのよれば、2014年度の私立大学一般入試の志願者数で、近畿大学が初めて全国1位になったそうです。昨年まで4年連続トップだった明治大学を抜いての1位で、関西の私立大学が首位になったのは今回が初の快挙。「近大マグロ」などの特徴あるニュースを発信続けた結果といえます。少子化で大学経営は厳しくなる一方ですが、独自路線を追求したところは強みを発揮するようです。

さて、この近畿大学は設立の歴史を見ると、日本大学と関係があることがわかります。そして、その日本大学は國學院大學と若干のつながりがあります。この3大学のちょっとした関係を見てみます。
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神道の教育機関・皇典講究所
1882(明治15)年、神道の研究・教育機関として皇典講究所が設立されました。脱亜入欧、富国強兵を目指していた明治新政府は、国家宗教として神道を大きく成長させようと考えます。そこで皇典講究所が作られ、神職の育成を行いました。そして1890年、さらに教育機関として「國學院」が設置されます。

しかし1945(昭和20)年、日本は敗戦しGHQの管轄下に置かれます。ここで国家神道は解体され、1946(昭和21)年に皇典講究所も解散します。とはいえ、事業と資産をすでに大学に昇格していた「國學院」が継承します。そして、日本で2つしかない神職を育成する大学として現在に至ります。
神道系大学一覧


皇典講究所からスタートした日本大学
Yamada_akiyoshi.jpgこの皇典講究所の設立に尽力したのが、初代司法大臣の山田顕義(やまだ・あきよし、1844年〜1892年)でした。彼は皇典講究所の初代所長になったほか、1889(明治22)年に
日本法律学校も作ります。明治時代の法律学校といえば、ほとんどが欧米の法律を学んでいまいたが、ここは神道の研究機関らしく日本法律を学ぶ目的で創られました。なお、日本法律学校は開校当初、皇典講究所の教室を夜間借りて講義を行なっていましたが、皇典講究所と組織的に繋がりがあったわけではありません。あくまで山田の私塾的な存在でした。そんな山田を日本大学では学祖としています。

山田顕義はあまり有名な人物ではありませんが、彼も松下村塾で吉田松陰に師事した長州藩士です。2012年に日本大学がスポンサーになって、『知られざる幕末の志士 山田顕義物語』というドラマも放映されました。山田役は山田涼介(青年期)と渡哲也(晩年期)。


日本大学にルーツがある近畿大学
koichi-seko.jpgともにマンモス大学として知られる日本大学と近畿大学ですが、近畿大学は日本大学にルーツがあります。近畿大学の学祖は、衆議院議員も務めた世耕弘一(せこう・こういち、1893年〜1965年)。彼は貧しい出自ながら苦学して日本大学法学部を卒業。卒業後は朝日新聞社に就職しますが、彼の才能に注目していた日本大学が1923(大正12)年にベルリン大学へ派遣します。世耕はベルリンに5年留学し、帰国後は日本大学の教授になります。

日本大学は、1925(大正14)年に現在の東大阪市に「日本大学専門学校」を設置します。これが後に日本大学から独立して「大阪専門学校」と改称します。1944(昭和19)年に世耕は「大阪専門学校」と「大阪理工科大学」の学長になり、1949(昭和24)年には両校を合併させて近畿大学とします。そして初代総長及び理事長に就任しました。世耕は設立当初から「日本人の学びの場を広めるため、医学部から文学部まで全学部揃えた大学にしたい」と考えていました。近畿大学がマンモス化の道を歩んできたのは、学祖の想いからといえます

このようなルーツ話は、その大学に通っている学生やOBですら知らない人が多いものです。とはいえ、学祖たちがどんな思いで学校を創立したかを知ると、とても鼓舞されるものがあります。


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ラベル:神道
posted by すぱあく at 17:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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