2014年01月13日

長州ファイブをロンドンにいざなったジャーディン・マセソン商会

幕末から今日に至るまで、日本史の節目で大きな影響を与えてきたジャーディン・マセソン商会
なんと、今も世界的な大商社として現存します

ジャーディン・マセソン商会は、「アジアを裏から操った」とか「坂本龍馬の黒幕だった」という感じで“陰謀論”で語られることが多いです。その側面は大いにありますが、そんな会社が今も存在し続けていることに歴史ロマンを感じます。しばらくは、このジャーディン・マセソン商会を見ていきたいと思います。

設立時のエピソードやさまざまな活動については後日触れるとして、今回は長州ファイブに関連した動きのみを見ていきます。
前回、長州ファイブがロンドンに降り立ったエピソードを述べましたが、なぜそんなことが実現できたかというと、イギリスの商社であるジャーディン・マセソン商会が、船も渡航費用もイギリス生活も全部面倒を見たからなんですね

彼らがこんな太っ腹なことをしたのは、当然ビジネスのためです
攘夷(外国人を排斥する)と騒ぐ武士の国ではなく、イギリス寄りの政府を日本に作りたかったんですね。
事実、結果的に日本はそうなります。そして、イギリスを含む欧米列強はこうした手法を各国で無数に展開していきます。たしかに、これは“陰謀論”そのものですね。

ジャーディン・マセソン商会は、幕末の日本で長崎横浜に拠点を置いていました。
Glover.jpg長崎の拠点を預かるのはトーマス・グラバー(1838年〜1911年)。幕末ファンなら、誰もが知る超有名人です。坂本龍馬や岩崎弥太郎をはじめ、多くの志士たちと交流をしていました。

スコットランド生まれの彼は、21歳のときに上海へ渡りジャーディン・マセソン商会に入社。数ヶ月後、開港まもない長崎に移り、1861年にマセソン商会・長崎代理人として
グラバー商会を設立します。
当初は生糸や茶の輸出を行っていましたが、荒れた幕末の日本で討幕派に武器や弾薬を売り始めたら、これが面白いように売れまくりました
倒幕派のイギリス留学を斡旋したのもグラバーです。長州ファイブだけでなく、薩摩藩の志士もイギリスに留学させました(後述)。

さて、今度は横浜の拠点に目を向けてみましょう。
eiichiban01.jpg1859年、ジャーディン・マセソン商会横浜支店が設立されました。これが日本に進出した外資系企業の第一号といわれています。設立したのはウィリアム・ケズウィック。ジャーディン・マセソン商会の創業者ウィリアム・ジャーディンの甥です。上海支店から移り、横浜支店長になりました。
横浜支店は、地元住民から英一番館と呼ばれていました。左の絵は、英一番館の館内で行われていた大陳列会です。
長州ファイブは江戸に到着後、この英一番館に立ち寄り、横浜港にあるチェルスウィック号(ジャーディン・マセソン商会所有の船)に乗って、洋上の旅に出発したのです。

Jardinbill.jpg横浜を出発してから6日後に、一行は上海に到着。
ここでジャーディン・マセソン商会上海支店を訪問しています。上海支店は1843年に設立。ビルは今も上海外灘(バンド)に現存しており、観光地になっています。

長州ファイブ一行は、この上海を出発した後、半年後にロンドンに到着します。彼らの留学生活を世話したのは、ジャーディン・マセソン商会ロンドン社長のヒュー・マセソンでした。彼は同社のもう一人の創業者ジェームス・マセソンの甥です。

さて、ジャーディン・マセソン商会は同時期に、薩摩藩の若者もイギリス留学させています。
それが薩摩藩遣英使節団。メンバーは新納中三・五代友厚・寺島宗則、町田久成、森有礼ら19名。この薩摩藩士と長州ファイブは、ロンドンで会い、交遊しています。当時の長州藩と薩摩藩は殺しあうほどの敵同士でしたが、
異国では同じ“日本人”という意識が芽生えたのかもしれませんね

それにしても、大英帝国そしてジャーディン・マセソン商会スサマジス。当時の日本は、彼らの手のひらの上で踊っていたようなものかもしれません。


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薩摩藩士の視点でイギリス留学を描いた作品。
ラベル:幕末
posted by すぱあく at 06:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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