2011年03月24日

正教会4 東西教会の分裂後に続く苦難の道

前回見てきたように、キリスト教は東方教会と西方教会で溝が深まっていましたが、1054年に東側のコンスタンディヌーポリ総主教ミハイル1世キルラリオスと西側のローマ教皇レオ9世が相互破門することで、東西教会の分裂は決定的になります。
この分裂はキリスト教史上最大規模のもので大シスマ(大分裂の意味)と呼ばれています。

ちなみに、ギリシアを中心とした正教会は「ギリシア正教」、ローマを中心としたカトリックは「ローマ・カトリック」と呼ばれることがあります。今もギリシアやスラブ社会に正教徒が多いのはこの名残です。

さて、東西教会は分裂後どうなったか。なんと立場は逆転し、これまで隆盛を極めた正教会(東方教会)は苦難の道を歩むことになり、反対に日陰の存在だったカトリック(西方教会)はヨーロッパ文明の精神的な支配者になっていくのです。

正教会にとって苦難の始まりは、後ろ盾だった東ローマ帝国がオスマン帝国に滅ぼされてしまったことでした(1453年)。イスラームのオスマン帝国はキリスト教の信仰を一応は認めましたが、厳しい弾圧を加えました。コンスタンティノープルはイスタンブルに改名され、アヤソフィア(聖ソフィア大聖堂)はイスラームのモスクになってしまいます。当然、信者の数は激減しました。

しかし、こうした時代にも正教会を国教として盛り上げていた国があります。それはロシアです。東ローマ帝国滅亡時のロシアには、モスクワ大公国がありました。これまでのロシアは、しばらくモンゴル帝国(キプチャク・ハン国)の末裔たちに苦しめられていましたが、この頃はようやく勢いを盛り返してきた時期です。
とくに名君の誉れ高いのがイヴァン3世です。彼は1472年、最後の東ローマ帝国皇帝コンスタンティノス11世の姪であるソフィヤ・パレオロークと再婚し、この出来事がロシアを大きく変えていきます。

blago.jpgソフィヤはギリシア生まれでしたが、東ローマ帝国が滅亡したときはローマに亡命していました。ですから、洗練されたイタリア文化、伝統あるギリシア文化(ビザンツ文化)に囲まれて育ちました。ところが嫁ぎ先のロシアときたら、寒いわ、文化も未発達だわ、モンゴル人に戦々恐々だわで大いに驚いたそうです。
こうしたなかイヴァン3世は、ソフィヤが持ち込んだイタリア文化、ビザンツ文化に大いに興味を持ちます。彼はイタリア人の建築家や技術者を呼び寄せて、モスクワのクレムリン内にビザンツ式の宮殿や教会を建設していきます。そうしてできたのが、ウスペンスキー大聖堂、ブラゴヴェシチェンスキー大聖堂、アルハンゲリスキー大聖堂などです。

文明の辺境だったロシアに最先端のビザンツ文明がやってきた。おかげで「正教会は素晴らしい」ということになるのは自然の流れです。以後、ロシアは正教会を国教とし、「東ローマ帝国の後継者」を自負していきます。この流れは、後のロシア帝国においても同様です。
「ロシア正教」が正教会の代名詞のように語られるのもそれだけ存在感が大きいからです。そして、このロシアから聖ニコライが日本にやってきて正教会を伝道し、今の日本ハリストス正教会につながっているわけです。

しかし、近現代に入って正教会にまた苦難がやってきました。正教会が普及していた東欧・ロシアで共産主義(社会主義)が台頭するのです。偶像崇拝が徹底的に禁止され、スターリンにいたっては救世主ハリストス大聖堂を爆破します。正教会の復興は、共産主義の崩壊を待たなければなりませんでした。


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ラベル:キリスト教
posted by すぱあく at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | ロシア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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