2011年03月23日

正教会3 「神聖ローマ帝国」という東側への対抗システム

キリスト教は4世紀初め、コンスタンティヌス1世により公認され、その後テオドシウス1世によりローマ帝国の国教とされます。

sophia.jpgところが、ローマ帝国は395年に東西に分割された後、476年に西ローマ帝国が滅亡します。
これによりローマを中心としたキリスト教社会(後のカトリック)は、後ろ盾を失います。
一方で、コンスタンティノープル(現トルコ・イスタンブール)を中心としたキリスト教(後の正教会)は、東ローマ帝国の国教とされ隆盛を極めます
537年ユスティニアヌス帝によって再建されたアヤソフィア(聖ソフィア大聖堂)は、「コンスタンティノポリス総主教庁」として東側キリスト教(後の正教会)の総本山となり、また東ローマ帝国諸皇帝の霊廟として用いられました。

このようにキリスト教は、東西で明暗がハッキリと分かれてしまいます。そのうちに両教会ともしだいに交流が薄くなり、数百年の間に教義の解釈、礼拝方式、教会組織のあり方、司祭の妻帯可否などで差異が拡大していきます。

さて、西のローマ側もだまって指をくわえていたわけではありません。なんとか、世俗社会の後ろ盾を得ようと画策します。そうして962年に誕生したのが「神聖ローマ帝国」です。

ローマ教皇による戴冠で、世俗の最高権力者である「皇帝」を任命する。この「皇帝」は、古代ローマ皇帝の継承者を意味します。その見返りに、皇帝は教皇すなわちキリスト教(後のカトリック)を保護します。そうやって、双方で保護し合うシステムが「神聖ローマ帝国」なのです。

「神聖ローマ帝国」を理解するときは、普通の「国家」という考え方をすると混乱します。
むしろ「システム」として理解するとスッキリします。そうやって、ローマ側(カトリック)は、コンスタンティノープル側(正教会)に対抗しようとしたんですね。

「神聖ローマ帝国」前夜の800年、ローマ教皇はついに行動に出ます。カロリング朝フランク王国のカール大帝に戴冠し、「ローマ皇帝」の称号を与えるのです。
当然のことながら、東ローマ帝国側はカール大帝が「ローマ皇帝」であることを認めるわけありません。「皇帝称号の僭称にすぎない」と見なしました。しかし、この戴冠によって、西ヨーロッパが宗教的にまとまるキッカケとなり、ようやく東側(東ローマ帝国&後の正教会)に対抗する足がかりを得たのです。そして962年、ローマ教皇は東フランク王国のオットー1世に戴冠し、ついに「神聖ローマ帝国」が誕生します。

神聖ローマ帝国が誕生した頃には、すでに西(カトリック)と東(正教会)のキリスト教は似て非なるものになっていました。そして、1054年に分裂は決定的なものになるのです。その話は次回で。


★関連記事
正教会1 ニコライ堂に行ってきました
正教会2 原始キリスト教の流れを汲む歴史の生き証人
正教会3 「神聖ローマ帝国」という東側への対抗システム
正教会4 東西教会の分裂後に続く苦難の道
正教会5 東西教会を徹底比較
正教会6 荘厳なイコンの下で祈る
『大旅行記』レビュー 聖ソフィア大聖堂を説明する
 冒険家イブン・バットゥータは、推定で1332年にアヤソフィアを訪れています
憧れのバチカン
 カトリックの総本山であるバチカンにも旅行してみたい
ラベル:キリスト教
posted by すぱあく at 08:26| Comment(0) | TrackBack(0) | ヨーロッパ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント

この記事へのトラックバック